表現者の ‘ 語り ’ を 僕は受け取る [いつまでたっても テレビっ子]
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今、見ているTVドラマは、「ペテロの葬列」のみ。
最近は、雑誌等で自分から、おもしろそうなドラマを探すようなことはない。
漫然とテレビを見ている時、偶然、その流れの中で知るご縁によってだけだ。見るきっかけは。
「ペテロの葬列」は、たまたま以前、これと同じシリーズのドラマを見ていたことで見始めた。
つまり、前のシリーズ「名もなき毒」は、僕にとって、名作だったからだ(〈参〉「愛はどこからやってくるのでしょう」)。
「名もなき毒」を見ていた時、同時期に「半沢直樹」が放送されていた。
どちらも、リアルタイムで見るということはなく、既に録画されたものを(時に何週か遅れて)見ていた。
知名度も人気度も、「半沢直樹」の方が全く上だったが、途中から僕は、「名もなき毒」の方の続きを、より見たいと思うようになった。
「半沢直樹」には、マスの受け(承認)を得るだけの演出、展開の力が、確かにあった。
が、作者自身による ‘ 語りたい ’ という強い衝動の裏打ちが感じられることの方が、僕にとっては大切だったのだろう。
もちろん、その比較は、相対的に、ということであって、両方、必要なことは言うまでもないが。
たとえば、先日までNHK(BS)でやっていた野島伸司オリジナル脚本のドラマ「プラトニック」。
設定、コンセプトは素晴らしかったが、野島らしい、あの現実離れしたセリフ回しは、ややしんどかった。
セリフ回しに関して言えば、(特に男女の)セリフのやりとりの絶妙さは、女性の作家、たとえば北川悦吏子なんかの方が、見ていて圧倒的に心地いい。
コンセプトとエンターテインメント性。ドラマや映画の好みが分かれるファクターとして、そのバランスは、意外と重要なのかもしれない。
僕は、あまのじゃくでも、マニアックでもないが、楽しめる確率が比較的高いメジャーなものを見ている一方で、つまみ食い的に手を出した方に心を持って行かれることが、ときどき起きる。
リアルな個人的男女関係で、そんなことが起きればいいなとは思うが、あくまで、ドラマ視聴の話だ。
何か月か前、豪華キャストを集めて鳴り物入りで始まった「ルーズヴェルト・ゲーム」の時に、横から、僕の心を持って行ったのは、「ブラック・プレジデント」だった。
ご縁というものに、本当に神秘性があるなら、そのさりげなさが、それの真骨頂なのかもしれない。
滅多にないことだが、「ルーズヴェルト・ゲーム」については、ラスト3話くらいで、見るのをやめてしまった。
マーケティングから作られた(視聴率が取れる要素を集めた)ものがもたらす底の浅さの典型を見た気がする。
一方、「ブラック・プレジデント」には、軽薄なコミカルふうの演出の中に、真実がもたらす癒しがあった。
作者の語りたいことが、伝わってきたからだ。
もちろん、語りたいことを、そのまま語っても、ほとんど誰も聞かない。
見てもらうためには、手段としての一定以上のエンターテインメント性が、どうしても必要だ。
だが、逆は、ダメだ。
表現されたものには、まず、情念や衝動の裏打ちがあってほしい。
それ自体が、目的であってほしい。
目的と今のその人自身との距離は、近ければ近いほど、多くの真実を含むと、僕は思う。
せめて、ドラマの脚本、あるいは原作は、そうであってほしい。
人の心を変える癒しは、結局のところ、理想や気晴らしではなく、
真実だけだからだ。
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