自発性を探せ!⑧ ─‘助ける’とは─ [俯瞰日記]
金曜の業務は、来週の予定表の最終作成と連絡だ。来週1週間、うちの会社からのスタッフが現場に穴を開けないための確認作業。
今日、会社に着いたのは、夕方4時。
テレビをつけたら、キムタクのドラマの再放送(『エンジン』)をやっていた。うるうる来る。
善意に溢れた女性保育士の親切心が、図らずも、施設の少女の気持ちを追い込んでしまう。その一方で、自分の個人的な夢に只生きている主人公が、たまたまその少女が自分の境遇を嘆いた言葉に対して、自分の人生への実感をぶっきらぼうにしゃべる。その瞬間、少女の心境が、内側から変わるという筋だ。
脚本家の真意が、よく分かる。
人は、助けることそれ自体が変に目的化すると、その行為は不自然なものになり、状況にうまく適合しなくなるということだ。特に、それが心理的なことに関わる場合は。
全ての事象は、因果律によって流れていて、それを曲げることは、基本的に反自然なことなのだ。その人を変えることに価値があるのは、その人の内発性による時のみだと、僕は思う。
人を助けることは無条件に良いことだという観念が、僕たちにはある。
だが、助けるという営為は、そんなに安易なことではない。
その人の行為が、その人に相応しい結果を受ける。その因果の流れそれ自体に、移りゆく季節のような美がある。その前提を知覚していなければ、本当の意味で、その人を助けることはできない。只単に、自分の達成感への手段として、その人を利用してしまうことになるだろう。
本当の意味で助けたいなら、僕たちは、‘私’が、この人を助けているという観念から自由な位置にいなければならないと、僕は思う。
ブログの管理ページを見ていたら、「今日の運勢は?」という小さな一文を見つけた。
軽い好奇心で押してみた。
全ての占いを信じていないわけではないが、ほとんどは、人間の思考の癖、つまり、関連付けに依存していると思う。我々の脳は、ある言葉が提示されたら、自動的に、それに関連した情報を集約し、編集する機能を持っている。ここを、どれだけ利用できるかで、占い師の技量が決まってくる。それだけのことだ。
現在、目の前にある事象が、過去と未来を暗示していることは、確かだろう。だが、それを読み解くことは、人間の思考には不可能である。思考は、解釈という自動的運動を前提にしている。そして、解釈が起きている時、既に事実からの乖離がスタートしているからだ。
などという、したり顔な見解を持つ僕は、その運勢の文を読んでみた。
うっ。文の内容が、今の僕の状況に、具体的にあてはまっている。
不思議と言えば、不思議だ。
『オーラの泉』で、江原氏に霊能で(!)部屋を覗かれて、その描写が当たって驚いているタレントの心境だ。
と言っても、今後、この占いで毎回そうなるとは思えない。おそらく、長いスパンでトータル的に見たら、通常の平均的な確率を超えることはないだろう。
占いが当たる時は、それを見る瞬間の機縁が作用しているように思える。
僕がその占いの文を見た時、たまたま、そこに事象の暗示が現れたに過ぎない。
よって、この占いのシステムを公開している人が占ったら必ず当たるということもないだろう。
だから、占いを職業化して成功するためには、別の才能が不可欠になってくると思う。
暗示をかける人がいる。信じる人がいる。そこに大きな市場がある。
まぁ、人が何によって幸せになるか、僕がとやかく言うことではない。
とにかく、今日は、僕は、大いなる事象の暗示を受けることができた。
感謝せずにはいられない。
それは、先週の土曜に始まった不安と憂鬱に対しての慈愛に満ちた答えだったのだから。
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