幸せの責任 ──小田和正論── ⅰ [古典ポップス体験]
愛のない毎日は自由な毎日
「眠れぬ夜」(オフコース)のワンコーラス目後半に入っているこの1行、ここに小田の素直な実感がよく表れている、そう僕には感じられた。
男女の恋愛から、ほぼまちがいなく派生する相手への執着による気持ちの嵐、これが結局のところ、男には煩わしいのだ。そう言うと、男女がお互いを思い合うとか、いつも一緒にいたいと願うとかいった、あのあたりまえな‘恋の常識的価値観’を共有できないとは、なんというドライ野郎!という烙印を押されてしまうかもしれない。
だが多かれ少なかれ、男とは、そういう生き物だ。
小田は、あの声質に似合わず、男性性の強い気質を持った人間だと、僕は推察している。
只、冒頭の男性性ならではの実感を、単純に表明するだけでは、一般性のあるラブソングとして成立しないだけではなく、非難のネタにすらまってしまうかもしれない。
そこで小田は、この1行をすべりこませるために、状況設定的にあとの詞を構築したのではないか。
たとえ君が目の前に膝まずいて全てを忘れてほしいと涙流しても
と、‘僕’が、このうっとうしい状況を拒否したいと願う原因は相手の女にあるという物語を、小田は詞のアタマに持ってくる。なかなかのバランスと周到さだ。
本当は、小田個人にとって、いや、男性なら誰でも、そんな一般向けな前提を持たなくても、
愛のない毎日は自由な毎日
という、この感じは心の基底にあるものなのだ、正直。
そう、男性性の基本は、自由感なのだから。これなくして、恋もへったくれもあるか!なのである。まぁ、そこまで言ったら味もふたもないが。
執着し合い、束縛し合うことは、逃れがたい恋愛(小田は、これを詞の中で‘愛’と呼んでいる)の必然だろう。体験すれば誰にでも分かること。
さてそこで、どうするか。普通は、いわゆる‘ままならぬ現実’ということで受け入れるのだが。
しかし、小田には、ある必殺技があった。あるいは男性性の強い(それは必ずしも性的に強いということではない)小田だからできたのかもしれない愛と自由を両立させる必殺技。
僕はそれを、「切なさの道具化」と呼んでみた。
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