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Re:気がかりへの返信 [僕の こじつけシンクロニシティ物語]

 躊躇して不作為となっている状態に対して、その僕のやるべき行為の結果が向こうからやってきた。
 夜、その出来事を思い出して、それに向き合っていたら、‘勇気’という言葉が想起された。
 勇気。この言葉について何か言っても、ベタな響きの話にしかならない。
 ♪人生、勇気が必要だ(水戸黄門)とか。
 あえて辞書を引くと、「物事を恐れない強い心」とある。
 僕にとって、勇気を発揮するというのは、感覚的に、実行がかなり難しい高いハードルの場合を指していたように思う。
 だが、今回の出来事に向き合っている内、勇気には多くの段階と種類があり、それぞれに様々な難易度があるということに思い至った。それは、発揮することが比較的た易いレベルの勇気が、常に身近に存在しているということである。
 辞書の意味にも表れているように、勇気とは、あえて恐怖を超えてみる行為と言える。それを発揮するネタは、生活の中で、刻々にチャンスとして細かくちりばめられている。
 例えば、クリーニングに出す機会を何となく保留にしてある衣類を今あえて出すとか。
 一見、勇気とは関係ない行為だが、あえて踏み出すという意味で、これも勇気である。
 恐ろしく小さく微分されたような勇気だが、それが勇気である限り、それは別のレベルの勇気と連動しているのではないか。そして、その行為が次のレベルの勇気への連鎖のサイクルを呼ぶのではないかと思えたのである。
 ギリシャ哲学に由来する西洋古典世界では、基本的な4つの徳の内の一つに「勇気」を入れている。
 古代ギリシャの哲学者は、精神的自由を求めたのだと思うが、そのためには、やりたいことを実際にやる勇気が必要なのだと彼らは考えたのではないか。
 僕の考える、また求める勇気が発揮される状態とは、その行為をする際に、恐怖の束縛から自由であるということである。
 つまり、えい!と無理して葛藤を振り払うのではなく、実行される時点では、恐怖が恐怖でなくなっているという状態である。
 僕が今回の件に向き合って得た実感的思いは、勇気というものの、その大小を超えて貫かれている本質的意味だった。
 それは、可能な行為を今あえてやる時のちょっとした決断力である。

 

 

 


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