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自我と孤立の向こう ② [見て取られた自己]

 やや残念なお知らせだが、自我(個)の存続は、自己中心性の過程そのものである。
 それは、排他性という絶望的な前提とともにある。
 幸か不幸か、‘私’という感覚は、目に見えず、捉えどころがないので、それの存続への意志に排他性が不可欠であることを認識しにくい。
 そこで、物理的な個体としての身体に目を向けてみる。
 僕たちは、免疫性という明らかに排他性と呼べる働きを備えている。
 排他性によって維持されているこの身体と連動して機能している心理が、やはり排他性を基本としていても、何の不思議もない。
 例えば、精神疾患の(対症)治療に、物質としての身体にアプローチするケミカル薬品が主流として使われ、実際、心理に現象として効果を示していることからも、二者の相似関係が密接であることは明らかである。
 そんな事実を改めて踏まえて、人間(僕)には、一体、何がどこまで、個々のレベルで可能なのかを冷静に考えてみる必要があると感じている。
 例えば、僕たちがいわゆる自発性と呼ぶ行為は、脳の記憶(記録)による条件づけから生じた機械反応的行為の域を、どの程度越えるものなのだろうかとか。
 僕たちに提示されている見栄えのいい具体的な成功アイテム、幸福アイテムというものが、不可抗力的に作られた個別な存在である自分に、本当に幸福の実感をもたらすだろうかとか。
 日々、そんなことばかり考えて百有余年。
 「そんな理屈ばかりこねてないで、体、動かしてみなよ。」
 一理ある。
 でもね。行為は、探求と共になければ、僕が求めるものは得られない。
 それは、はっきりしている。
 探求のない人たちの光景が、そのことを、常に僕に示している。

 

 

 

 


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