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自我と孤立の向こう ③ [見て取られた自己]

 実際に幸福の実感をもたらすことに導く自発性は、憧れや羨望を超えた、もっと言えば、そういったものとは無縁の衝動でなくてはならない。としたら。
 そう考えると、僕たちは、人生における成功とは何なのか、また、自由とは何なのかということを本気で問い始めざるを得ない。
 
 幸福は、心に実際に起きる事実であり、いくら人が自分を羨んでも、その事実がなければ無意味である。
 
 先に、僕は、あらゆる人間が持つ自己中心性について述べた。
 それを踏まえて言えば、この世界は‘欲望の原理’で動いているということが見て取れる。
 
 つまり、僕たちの生きる目的の基本は、欲望の達成ということである。
 確かに、それには癖になる快感が伴う。僕たちは、それを幸福と呼び、次の達成への向かうわけだが、どうも、何か違う。
 校長になりたい教頭。社長になりたい専務。総理になりたい大臣。
 なりたい対象が目の前にいる。既にいる。
 アレになるのだ。
 その時点で、どうもしらける。
 
 僕にとって、幸福は、今、常に、ここに、僕の事実としてなければ、それは嘘である。
 アレになる。アノ場所に行く。
 どこか別の場所に設定された幸福を、僕は、もはや信じていない。
 そんな、条件が必要なものは、逆にその条件の支えに、どこまでも依存し続ける幸福なのである。
 
 何にも依存しない、空想も、夢も、理念も、必要としない幸福でなければ、永遠の自転車操業ではないか。
 
 僕は、途方もない望みを語っているのだろうか。

 

 

 

 


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