問い続けることと、聴き続けること [泡沫の感興]
僕を走らせてくれ
僕の中にあるes
(【es】~Theme of es~)
やれやれ。
この曲を書いた時、ミスター・チルドレンは、既に押しも押されぬトップスターだった。
あれだけの成功を掴んだ者にとっても、自分の停滞が苦痛なのは、僕らと同じらしい。
月収が100万を越えると、その金額の上昇と幸福感の比例関係は、ガクンと鈍るという。
体験はないが、想像はつく。
そこからは、逆に、さらなる目標、ときめきといったものが、より重要になってくるのだろう。
まぁ、つまりは、生きている実感への刺激ということだろう。
人はパンのみにて生きるにあらず
という。
本当に‘パンを超えたもの’は、僕たちが知っている幸福の‘刺激’の延長上には、たぶん、ないだろう。
かと言って、
貧しい者は幸いである
とも言えない。
世界的な視野から見れば、かなり裕福なこの国家に住んでいる僕は、ちまちまとしたレベルで、刺激──憂さ晴らし的幸福──を求め続けている。
幸か不幸か、へらへら生きるには、ここは、絶好の環境なのかもしれない。
周囲にも、パンを超えたものを本当に求めている人を、とんと見かけない。
「お金では買えないものだよねぇ。」「それが大切だよねぇ。」「愛だよねぇ。」「絆だよねぇ。」等々。
虫唾が走る。
猿真似で、脊髄反応的に何を語っても、意味も深みも持たない。
親から「この自由主義社会で、一定以上の収入(年収4000万以上)を稼げないのは、その人がバカだから」と親に教育され、その通りに信じている西川史子の方が、まだ‘お金で変えないもの’を見出す可能性がある。
大多数の人たちが望んでいる幸福は、相対的な幸福である。
がゆえに、優越性が必要となる。
「人の不幸は蜜の味」。つまりは、僕たちは、他人の不幸を、現に‘必要’としているのだ。
そんな幸福は、欺瞞力の強い者が勝つ。
だが、実際のところ、
欺瞞の先にあるのは、自己催眠、あるいは幻想のみである。
とはいっても、100パーセントの偽善者もまた、いない。
この事実は重要だ。そこを押さえなければ、絶望に浸った只のうっとうしいニヒリストでしかない。
僕にできることは、‘全て’に語りかけること。
人間は、多かれ少なかれ、その‘全て’を反映している。
人の言葉、反応も含め、‘全て’から聴くこと。
僕は、本当に問いかけているだろうか。
僕は、本当に返答を聴いているだろうか。
残念ながら、否だ。
この寂しさが、証明している。
この寂しさは、誰かが美しい意図を持って癒せる寂しさではない。
全ては、‘僕’の問題なのだ。
僕が、‘それ’に触れられれば、停滞は終わるだろう。
もちろん、僕が求めるものを、ミスター・チルドレンが得ているわけではない。
にもかかわらず、このフレーズは僕の印象に残り、響き続けていることも、また確かな事実だ。
僕を走らせてくれ
僕の中にあるes
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