励みと慰め [僕の こじつけシンクロニシティ物語]
このところ、北陸地方を中心に、空からおたまじゃくしや川魚が落ちてくるという怪現象が起きている。
個人的なことで、僕にも、今日、不思議なことが起きた。
ビデオデッキのハードディスクに録画してあった150時間分のテレビ番組が、突然消えたのだ。
いつか見るつもりで、2年以上も見ていない番組も含まれていた。今日、予約録画したものだけが残っていた。
テレビ中毒の僕が、それほどのショックを受けなかった。
ある種の虚脱感。
録ってある番組を、本当に全て見るには、150時間かかる。現実的に考えたら、ついに見ない可能性の方が高い。現に2年前の引越しの時、録画しただけで一度も見ていない番組を含むビデオテープを200本近く捨てた。それまで住んでいたマンションが建て替えられるということで出て行かざるを得ないという状況に‘促されて’だった。
テレビ番組を見る時間に、人生の時間がどれほど費やされているかといったことを考え、ゾッとすることは、これまでよくあったが、その生活パターンは、全く変わらず継続してきた。そこが、テレビ中毒たる所以、つまり、ある種、患者なのだ。
根っからの怠惰性が基本にあることは間違いないが、テレビの存在が、それを大いに後押ししていたことも、また事実だ。
終わりなきテレビ麻薬が支配する生活。自分の意志力など、軽く凌駕していた。
ある意味、今回の出来事は、他者からの強制終了だった。
テレビは、竜宮城に似ている。
気がついたら、文字通り馬齢を重ね、僕は歳を取っていた。
人の意志力とは、何と無力なんだろう。
いや、本当にヤバいのは、その事実を前提として受け入れないで流されることのほうだ。
この、たぶん想像を遥かに超えた、この状態の継続力に対して、僕は甘く見ることをやめなかった。つまり、漠然とした希望で、実際的行為を先送りにしてきたのだ。
そして、長い年月における僕のあり方の事実が、僕の意志の無力を証明していた。
僕は、問いに対する答えを求めていた。
僕は、特にこのところ願っていた。自分が、24時間の瞬間瞬間に可能な自分の行為に気づき、またそれを見出すということ自体を想起できますようにと。
先週、僕は、自分と縁の深い神が祭られている神社に行った。
お願い事は、しなかった。
只、これまでの自分のあり方を詫びたのだ。
いつもは、お参りの直後、暗示を得るため、おみくじを引くのだが、この時は、うっかり有り金の全てお賽銭箱に入れてしまい、引くことができなかった。
まぁ、どうせ、本当にその内容を生活に生かせたことは、これまでにもなかったし、今回の主旨は、詫びることだったので、それもいいだろうと思うようにして帰った。
今回のこのビデオデッキの出来事は、そこそこ分かりやすい、信憑性のある答えの現象かもしれない。
他人から見れば只の偶然だが、とにかく150時間を費やして見るというノルマから、僕が解放されたことは確かだ。
そして、この答えは、根本的な意味での孤独を知る僕にとって、励みと慰めになった。
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