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自発性を探せ!17 ─ 本意も不本意もない事実描写─ [俯瞰日記]

 ‘強制’に依存してきた。
 僕はきっと、ずっと誰かの強制を待っていた。
 ほっとけば、自ら、何もしない。
 そんな自分を思う時、思い出す文章がある。
 
  彼等は常に受身である。自分の方からこうしたいとは言わず、また、言い得ない。
  その代り押しつけられた事柄を彼等独特のずるさによって処理しておるので、そ
  してその受身のずるさが、孜々として、日本の歴史を動かしてきたのであった。
                                                  (「続堕落論」 坂口安吾)
 
 昔、こんなことがあった。
 高校入学前の春休み。
 父親が、新聞の折込みに入っていた少人数制の進学塾の広告を見て、僕に入塾を勧めた。
 僕は、しっかりした意思も示せず、「うん。」と言った。
 その広告のキャッチコピーは、「国立大学へ、GO!」だった。
 今は、多少変わってきているだろうが、優秀な人間は国立大学に進むという常識に近い観念が地方にはある。
 
 当然、その塾は、進学校の生徒で占められていた。
 僕の入った高校は、進学校と呼ぶには程遠い高校で、そこの生徒が、この塾に入ることを希望するという発想自体、ほとんど前例のないことだった。
 
 やや戸惑う塾責任者に、父親は、「とにかく、(入塾選考)試験の結果を見てから、決めてほしい。」と頼んだ。
 僕のためでもあったし、父親のプライドでもあった。
 
 僕にとって、客観的にはきつい状況ではあったが、成り行き的に拒否の選択肢がなかったことが、僕を葛藤の苦しみから守っていたとも言える。
 状況は、強制していた。
 僕は試験を受けることができたのは、そのお陰だった。
 
 塾側にとって、無下に断る程の点数ではなかった。
 今でも、憶えている。
 英語の簡単な比較級の問題で、本来は、older を普通に使うところを、僕は、elder を使った。正解ではないがは、まるっきり低能ではない間違いだった。
 「じゃあ、しばらく来てみるかい?」と、塾経営者は言った。
 
 入ったものの、授業についていけないということはなかったが、心理的に地獄だった。
 一緒に授業を受ける生徒の中には、中学時代の同級生がいた。彼らは地域の進学校のM高校の生徒になっていた。
 進学高の生徒同士で、「おまえ、本当にM高かぁ? 実は、Mこうって、M工業じゃねぇか(笑)」などと、いじられ役の生徒をバカにした冗談を言って、よく盛り上がっていた。
 M工業高校なんて高校は、実際にはない。架空の高校名だ。
 自分たちが選ばれた高校に通っているということが前提となった何気ない冗談だった。
 気のせいかもしれないが、かつての同級生が、そんな冗談を言ったあと、僕に気を遣っているように見えた。もし、M工業高校という高校があったら、僕の通う高校と同じレベルであっただろうから。
 
 そんな時、僕に悔しい気持ちはなかった。
 逆に、僕がここにいなければ、そういう冗談を心置きなく言えるだろうにとすら思っていた。
 僕にあったのは、屈辱感ではなく、大きな場違い感だったのだ。
 僕は、自嘲気味になり、そんな地獄の空間の‘地獄性’を感じないようにしていた。
 それは、たぶん卑屈な自己防衛だった。
 
 結局、僕は、この塾に2年以上通い、偏差値相応の私立大学に入った。
 そして、その私立大学を一年くらいで勝手に辞め、親には事後報告で予備校に入り、別の私立大学を受け、入学した。
 最初の大学に入った時の入学金、1年分の授業料、その間の生活費、予備校の授業料、その間の生活費、次の大学の入学金、4年間の授業料、その間の生活費のすべてを親に払ってもらった。
 
 僕には、申し訳ないという発想が全く起きなかった。
 常識的には、それは最低なことだし、不思議なことでさえある。
 
 あとで自分なりに分析すると、僕の大学進学を父親が強く望んでいたという事実に、僕が乗っかっていたからだろうと思う。
 他人の希望に乗っかれば、問われる責任感も、迷惑をかけた罪悪感も感じないで済むのだ。
 だが、何も生み出さない。
 少なくとも、そのような行動原理から生まれた行為は、何か一定以上のものを成す推進力を持たない。、
 今の僕の状態。
 結果は、正直だ。
 
 僕には、僕の望みがあり、ずっと全くブレていない。
 そう思ってきた。
 しかし、事実として、僕は、そのために何をしたのか。
 
 実際、徹底しては、何もしていないのだ。
 その事実が、僕に問う。
 「おまえは、本当に、それを望んでいるのか。」と。
 
 望みの具現がなければ、この人生は失敗である。
 それは、必ずしも、社会的評価や名声の有無によるものではない。
 客観的な評価を得ても、失敗はあるし、それがなくても、成功はある。
 
 人は必ず死ぬという事実を、えいと思い起こせば、成すことは、生き長らえることより、明らかに大切なことと分かる。
 なのに、僕は、未だに、事態の強制を待っている。
 強制されたという事実が責任回避の担保となり、その保護下で、少しでも得を取ろうとしているのだ。
 
 僕は、待つという意思で、待っているのですらない。
 ほっとけば全く何もしないという事実のみによって、この身体は今尚、強制を待っているのである。
 

 

 

 

 

 

 


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