『無気力一代男日記』 3.一喜一憂の嵐の中で [俯瞰日記]
自由でいる。
青い言葉だ。
そんなことを言っていられるのは、どっぷりと親の庇護内にあって尾崎豊の歌にでも酔いしれていられる十代までだ。
いい年をして本気でそんなことを言っている奴を見たら、良識人は虫酸すら走ることだろう。
よく分かっているつもりだが、僕は相変わらず、価値観も含めて、あらゆる強制を生理的に拒否してしまう。
今でも、スーツ姿のサラリーマンを見ると、バカを見てイラっとする時のあの感情が反射的に湧いてくることがある。
僕は、どうやら、事実として、彼らと価値観を共有できない世界に生きているらしい。
彼らから見れば、僕の方が、苛立ちの、あるいは善意で啓蒙すべき対象なのかもしれない。
思えば、自由は、小さい頃から求めていた。
たぶん、人間に死というものがあることを知った頃からだろう。
自由と言っても、いろいろなレベルがある。
この先進国の豊かな時代に生まれた子どもが求めていた自由なのだから、それは政治的自由ではなく、あえて言えば、心の自由だろう。
「心の自由」と聞くと、社会環境や生活環境がどうあろうと可能なはずだと考えがちである。
だが、それは有史以来の机上の空論である。
いきなり、心の自由ということにアプローチするのは、少なくとも僕には不可能であると、体験上、思わざるを得ない。
僕の心は、無自覚に環境の影響を受ける混沌でしかないからだ。
まず、この混沌を継続させる一喜一憂の嵐が止んでいなければならない。
止んだ状態で、僕は初めてスタート地点に立つことができる。
個別具体的な意味での生活環境の自由は、たぶん僕自身の想像すら遥かに上回る重要さを持っている。
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