ア・デイ・イン・ザ・ライフ ── 不条理への構え── [僕の こじつけシンクロニシティ物語]
会社に行くバスの中で、町山智浩と宇多丸の、映画評についての論争を聴いていた。
町山は、柔らかい口調で、ときどきケラッケラッと無邪気に笑いながら、宇多丸のある映画についての批評を、具体的根拠を示しながら明快な論理でビシビシと非難していた。
口調の柔らかさと内容の厳しさの裏腹さが、またスリリングで、思わず、僕は、バスの中で人目を忘れてニヤニヤと笑っていた。
論争の内容や対立点は、僕にとって、さほど意味はなかった。
それより何より、論争の最後の方で町山が言った言葉が、あまりに僕にとってタイムリーだったことが、僕に驚きと感慨深さを生んだ。
個人が、不条理な状況に遭遇した時に取る行動として、次の3つくらいのパターンがあると、町山は言う(と言っても、町山が自分の普段考えている思想として言ったわけではなく、論争のネタになっている映画のテーマと自分個人の関係性を述べる際に、たまたま便宜的に前提を置いたに過ぎないのだが)。
例えば、自分の所属している集団が最悪に思えた時、
①そこに留まり、その中で、自分にできる最良のことをやる
②見切りをつけ、そこを放棄して、別の場所に行く
③思考停止して、そこの場所に留まり、唯、適応していく
町山は、どれが正解ということはないと断った上で、自分は、間違いなく①を選ぶし、実際に、そうしてきたと言った。
その時、町山の念頭にあった最悪の集団とは、以前、彼が勤めていた会社(恐らく宝島社)である。
サラリーマンが会社の中でぶつかる不条理。これは、あるいは、一般論を語る最大公約数として取り上げても良いくらい、よくあることなのかもしれない。
凡庸な一社会人である僕は、そんな不条理が引き起こす葛藤的心理の真っ直中にいた。
そして、町山の言葉を聴いた瞬間、僕は、実際に元気づけられた。
人の言葉に元気づけられることは、僕にとって記憶にないほど久しぶりのことだった。
確かに、ストンと癒されたのだ。
この偶然のタイムリーさを、僕は、シンクロニシティと位置づけた。
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