ちっぽけな感傷への僕の構え [泡沫の感興]
図書館で借りたある対談本を呼んでいると、「チャウシェスクの子供たち」の話が出てきた。
割に、知られた常識的な知識なのかもしれないが、僕は初めて知った。
ルーマニアのチャウシェスク元大統領は、独裁政権時、国力を上げるために、人口を増やす政策を取った。子供を作れば、税金が免除され、逆に奨励金がもらえるというものだ。
やがて、クーデターにより共産党政権が崩壊し、その優遇措置は瞬時に消え、制度によって生まれた多くの子供たちは親に棄てられ、街に溢れた。
これが、チャウシェスクの子供たちというわけだ。
本の中で対談している一方の人が、たまたま仕事でルーマニアに行った時、実際に、その子供たちを見たという。
夜は危険なのでレストランの前などなるべく明るい歩道で、子供たちは一夜を過ごす。そんな中で、スカートを穿いたある少女が足を伸ばして地べたに座っていたという。奇妙なかっこうなので、よく見てみると、伸ばした足の上に幼い弟を横たわらせている。
つまり、地面が冷たいので、そこに弟が直接、接することのないように、そうしていたのだ。
別に泣かせる話として語られたのではない。
話のテーマは税金だったのだから。
僕は、ほんのついでに語られたちょっとしたこのエピソードに、こみ上げてくるものを感じた。
こんなドライで、クールな僕に、そういう感覚が湧いてきたことに、少なからず驚いた。
そんなヒネクレたこと言わずに、「俺って、けっこう優っさしい!」と自己満足に浸れば良いのかもしれないが、できれば、僕はその先に行きたい。
もちろん、‘優しさを実践的に示そう! オー!’ということではない。
そんなことではない。
その先……。
僕のブログの根底に一貫したテーマがあるとしたら、たぶん、そこなのだろうと思う。
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