他人の責任感に期待する責任なき存在 [俯瞰日記]
原発事故への対応について、政府、東電、原子力の保安院、安全委員会への不満的発言が日増しに増大している。
その不満は、人はこうあるべきという理念に基づくものである。
こういった不満、批判が、現実を良い方向に向かわせる実効性は、どの程度あるのだろう。
最も要となる政府の対応が、問題の解決の本質を無視したものばかりになっているという現象を見れば、それは自ずと分かる。
不満と期待は、表裏一体で、相補完的である。
期待がなければ、不満も起きない。
この政府には期待できないと言いながら、僕たちの胸に不満が渦巻くのは、僕たちが不可抗力的に、期待することに執着せざるを得ない存在だからだと思われる。
では、僕たちが無意識に期待している存在とは、どういう存在か。
自利心が弱く、極めて利他的に行動する存在である。
現実問題として、そんな人間が、全人類の何パーセントいるのだろう?
たとえば、多くの人が、今より収入を増やしたいと思っている。
その人たちのどれだけが、こう願うだろうか。
「私が100万円の収入を得るときは、人に100万円施してからにしたい。」
もちろん、そんな利他的な人間になろう!と言っているのではない。
仮に、僕がそんな人間であったとしたら、「あなたたちも、僕のようであるべきだ。」とは言わないだろうし、思わないだろう。
たぶん、自分がそんな人間であることに、感謝するだけだろう。
人に理想を期待することは、少なくとも実効面で、空しい。
期待が、人にもたらすものは、それを演じることでしかない。
不満によっても、理想によっても、他人を変えることはできない、と僕は思っている。
その人が直接、事実を見て、その本質的理解によって、自分が変わることはあるだろう。
そのようなことで、一人ひとりの自分が変われば、社会は変わるだろう。
人への不満は、自分への不満からの逃避になる。
僕たちが人に期待する、‘責任感’。
どれだけの人間に、この責任感というものが生じているのだろう。
それが生じる人間にのみ、責任を期待できるのだとしたら。
僕に、人に期待し不満を持つ時間はあるのだろうか。
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