ベッキーの「ありがとう」 ──愛という原資── [いつまでたっても テレビっ子]
「ありがとう」と直接あなたに言える、この距離にありがとう
(『ベッキーの心のとびら』)
これは、従来の「ありがとう。」とは、次元の異なる言葉である。感謝の念の表出。その対象が、必ずしも目の前の特定の人間ではないという意味において。
上のベッキーの表現は、オリジナリティが高かったので、特に注目されたようだが、そのような感情の言葉の表出は、誰にも起き得る。
たとえば、誰かに「いてくれてありがとう。」。
子が親に「産んでくれてありがとう。」。
親が子に「生まれてきてくれてありがとう。」等々。
ここで僕が注目したいのは、‘私’に働きかける‘あなた’に、ありがとう、ではなく、‘あなたが存在している事実’に、ありがとう、と言っている点である。
従来、ありがとう、という言葉は、特定の個人の具体的な行為に対するものとして、僕たちは教わってきた。
例えば、叔母さんからお年玉をもらった時、親が子供に「ありがとうは?」みたいに。
‘その個人が存在している事実’という抽象的な概念が対象になっている時の「ありがとう。」は、自分自身の感慨の不可抗力的な表出である。
それは、自分の心の奥深くで生じ、それゆえに、指向性を持たない。
もちろん、目の前の具体的な個人が無視されているのではなく、むしろ、相手の特定の行為や言葉を突き抜け、存在のレベルでのその人に届いてしまう。
指向性を持たない感謝が、相手の存在のレベルに達してしまうというパラドックスは、神秘ですらある。
そして、感謝の気持ちを受けた側は、存在のレベルで支えられたことによる、不思議な安心感と癒しを得、その事実によって、感謝している相手への感謝が生じる。
不可抗力的に。つまり誰も頼みもしないのに。
僕の個人的な経験では、僕を本当の意味に助けたのは、僕を助けようという‘下ごころ’がない人たちだった。
その時の感慨は、誰かの意図によって与えられたものではなく、自らの内から勝手に生じたものである。その感慨は、愛の感覚に通じ、それゆえに指向性を持たなかった。
その「ありがとう」に、もし、あえて指向性を持たせたら、その感慨は、愛というエネルギーの原資から離れていく気がした。
愛とか言っているが、僕は、優しくない人間である。
開き直りでもなく、謙虚さ志向でもなく、自覚である。
寂しい話ではあるが、それゆえの特権がある。
優しい人を見た時、感動して、涙を流すことができるという特権だ。
涙を流すのは、優しい人ではなく、
優しくない人の方なんだ、と、ある日、僕は悟った。
悪くないじゃないか、この特権。
Isn't it good ? Norwegian wood.
さて、ベッキー。 君は、
どちらの人?
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