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「一人の生命は、全地球よりも重いんだからね。」 [丘の上から]

 「一人の生命は、全地球よりも重い。」

 この言葉、よく自明の前提として引用されるが、いわゆる預言でも、宗教的賢者の言葉でもない。イギリスの作家であり医者でもあったサミュエル・スマイルズという人の『自助論』(1859年)の中の一説だ。
 この言葉が広く知られるようになった大きなきっかけは、まず、戦後まもなくの頃、広島で起きた存続殺人における最高裁判事の判決文の中で引用されたこと。さらに、その後、よど号ハイジャック事件の際(1970年)に、当時の首相福田赳夫が下した、犯人の移送協力の要求を呑む(逃亡幇助)という超法規的な決断の根拠として、この言葉を用いたことが考えられる。
 
 後の一般市民の観念への影響力という意味では、当の最高裁の判決内容や福田首相(当時)が下した決断の中身よりも、その根拠として引用されたこの言葉の方が遥かに大きかった。なにしろ、「一人の生命は、全地球よりも重い。」ですよねと言っておけば、正面切った反論を、あらかじめ封じることができるのだから。
 
 僕は、この言葉に、悪質な欺瞞性を感じる。
 
 他の生き物に対してはもちろん、他人よりまず自分の命を圧倒的に大事にしたい。これが、個として存在している生き物の基本スタンスである。
 この原点である事実と向き合うことに抵抗があるので、我々は、‘私の命は’という主語を一般化して、‘一人の生命は’と言い換えてごまかしたと、僕は見る。
 そんな姑息な技術による言い回しに過ぎないこの格言めいた言葉を得た結果、我々の自我は相対的に肥大化し、‘全地球’大になったのだ。
 つまり、‘地球より重い’と我々が実質的に主張しているのは、単に、‘私の命’への執着ではないのか。
 
 自分自身の現実の正体を棚上げにすることによって、我々は、堂々と義憤を気取り、他人を非難する。その無意識に隠された目的は、怒りの興奮による快感である。
 特に、そういう行為が許される装置である新聞・テレビに代表される大メディアは、そんな人間の正体を分かりやすく体現している。
 叩いても許されると見るや、対象の政治家や容疑者等を、大きな高揚感とともに叩き、それ自体が目的化している自分に、彼らは気づいていない。
 この気づいていないという事実が、その残虐性を際限のないものにしている。
 
 「一人の生命は、全地球よりも重い。」
 
 つまりこの言葉は、自身の根深い欺瞞を覆い隠し、逆にその隠された事実を、正当化、権威化された武器として使うことで、我々の自己中心的な残虐性を、罪悪感なしに、存分に発揮し続けることを可能にしているのである。
 
 ‘人間は、正義を知り得るか。’
 この問いに対して、それは可能であるという夢は、ルネサンス、あるいはヒューマニズム運動以降の人間として、僕は共有する。
 が、少なくとも、それが、理性によって、つまり演繹、帰納を駆使したり、論理的な積み上げによって見出せるものではないという最低限の謙虚さは必要であると、僕は思う。
 
 人間は、自分の幸せのためなら、簡単に自分自身を欺く。
 論理の展開過程は、あっという間に、自分自身の正当化によって、自称‘客観的’に、自分自身を騙す過程となる。
 
 「一人の生命は、全地球よりも重い。」

と言う代わりに、
 
 「僕は死にたくありましぇ~ん。どのくらい死にたくないかと言えば、地球の大きさくらいで~す。」
 
と、僕は叫ぶ。
 
 事実から出発しないと、人間に備わっている(かもしれない)崇高な自覚は、永遠にやってこないだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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