「恨み」というリアル [いつまでたっても テレビっ子]
『 半沢直樹 』
このドラマの影響で、
「倍返しだ!」
「十倍返しだ!」が、流行り文句になりつつあるようだ。
恨みの感情は、人が持続的な努力をする際の大きなモチベーションになる。
韓国、中国が行う反日教育という国策は、この感情を利用したものだろう。
昔から人並みに恨みの感情を持ってきた僕は、主人公の半沢に、普通に感情移入して、このドラマを見ている。
5話で、半沢が一応の復讐を遂げたことで、多くの視聴者同様、僕も溜飲を下げた。
当然、話をおもしろくするために、このあと、多くの波乱、悲劇を用意してあるのだろうが、
そうなる必然性の示唆は、我々が実際に生きている現実の中にある。
たとえば、世界の国家間、民族間で起きているような ‘ 恨みの連鎖 ’ のような。
仏教の開祖ブッダは、
「諸々の恨みは、恨みによってはいつまでも鎮(しず)まらず、恨みを離れることによって鎮まる。これは永遠の真理である」 (『真理の言葉』五)
と、説いていたという。
これは、あくまで、他ならぬ ‘ 私 ’ の心に、確かに平安をもたらす、プラグマティックな方法論と言える。
たぶん、これが、自分に苦しみをもたらすものとしての ‘ 恨み ’ を終わらせる唯一つの方法なのだろう。
だが、真理の言葉を、実際に、自分自身に結実させることと、お題目として掲げることでは、全く別の結果をもたらす。
世界の大多数の人が後者をやってしまうがために、結果として、誰もが害毒を撒き散らしているように、僕には見える。
恨みの感情が、実際に、自分自身に何をもたらすかを、本当の意味で ‘ 見る ’ ことなく、真理の言葉を、「きれいごと」にしてしまっているからだ。
「きれいごと」を語ることによる快感への誘惑は、誰にとっても抗い難いものなのだろう。
恨みは、怒りをもたらし、怒りは、興奮をもたらし、興奮は、快感をもたらす。
「きれいごと」に固執する人たちは、この快感に執着しているに過ぎない。
「きれいごと」は、所詮、借り物でしかない。
義憤とか、社会正義とか、あるいは、「見返す」という言葉で、自分のあり方を正当化しても、彼らは、依然、自己中心的な只の快感志向者でしかない。
「きれいごと」を「理念」という言葉に換え、それを「啓蒙」(メッセージ)することで、人は、変わるだろうか。
社会は変わるだろうか。
例えば、半沢のような境遇の人に、こう語りかけたら。
人を恨むことはいけないことです。
復讐は、本当の解決をもたらしません。
「罪を憎んで、人を憎まず」です。
彼は、答えるだろう。
「 ‘ 罪 ’ なんていう抽象概念を、どうやって憎むんだい。おまえは、二次元キャラクターで抜ける変態オタク野郎か。」
只、思考停止し「きれいごと」に逃避していただけの偽善者野郎は、何を問われたのかも理解できないだろう。
少なくとも、半沢は、‘ リアル ’ から逃避していない。
だから、彼の方が、常識とは逆に、より‘ 愛 ’(真理)に近い。
‘ リアル ’ と向き合う。
この第一歩をはずしたら、全ての行為が、「きれいごと」になるからだ。
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