愛はどこからやってくるのでしょう [いつまでたっても テレビっ子]
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身体であれ、心であれ、多かれ少なかれ、誰もが、きっと苦痛を抱えている。
「隣の芝生は青い」という言葉があるように、自分の悲しみに浸っていればいるほど、他人の能天気な幸せ顔が気になる。
生きていく中で、自分に与えられた条件や運に恵まれない人は多いと思うが、その中の少なからずの人が、
「自分には、この社会に復讐する権利がある。」と、ごく自然に感じてしまう。
そんな感情を持ってしまった人間を、僕たちは、善良な市民の正当な権利として憎み、駆除したいと願う。
少し前に、『 名もなき毒 』(主演:小泉孝太郎)というTVドラマが、そんなテーマを含んでいた。
社会への復讐心に燃える自分(被害妄想の女)にとって、いかにも幸せな人生を歩んでいるように見える人間(主人公)は、自分の不幸感を増大させる加害者だった。
女は、主人公の小さな愛娘を刺し殺そうとするのだが、間一髪で、主人公の男が阻止する。
直後、それまで常に温厚な人として生きてきたその男は、女の身体を、壁に何度もぶつけ、無意識に殺そうをとしていた。
その時の感情を、彼は、後で振り返り ‘ この世界が内包する毒 ’ と呼んだ。
これは、この主人公が、自分を相対化させ、常識的に見て明らかに悪質なキチガイ女と自分を、同列に置いたと言えるだろう。
つまり、結局は、双方ともが、‘ 復讐心 ’ という ‘ ピュアな感情 ’ に動かされたのだ。
たとえば、困っている人、かわいそうな人を見て、咄嗟に、善悪、損得を思慮する間もなく ‘ 助けたい ’ と願う時の感情のように。
「下劣な感情(復讐心)と、崇高な感情(人助け)をいっしょにするな!」。
常識的な人だったら、誰でもが、そう思うだろう。
あのドラマを見た大多数の人は、あのキチガイ女に強い憤りを感じたに違いない。
基本的に、僕もまた、その例外ではない。
只、あのキチガイ女を、純粋な悪(たとえば、映画『ダークナイト』のジョーカーのような)として単純に捉えるのに躊躇する自分がいることも確かだ。
少なくとも、僕は、あのようなキチガイ女を、無垢な善良な市民として、 ‘ ピュアに ’ ‘ 愛ゆえに ’ 自信満々に憎める人間ではない。
それどころか、雑踏を、只一人歩いている時、たまに、ふと凶悪犯罪者やテロリストの気持ちが ‘ 解る ’ と感じることすらある。
その時の僕と凶悪犯罪者の違いは、たぶん、それを実行するかしないかだけなのだ。
たぶん、僕は、いわゆる良識が悪と規定した者を、誇り高く殺害するウルトラマン的愛を望んでいないのだろう。
きれいごとで悦に入るつもりはない。
只、愛や正義を語る人間の無自覚な残酷さに目が行きやすいだけのことだ。
善良なクレーマー、人権派弁護士、マスメディア、東京地検特捜部……etc.。
たまたま先日、テレビで、『 陰陽師 』という映画がリバイバル放送されていた。
主人公、安倍清明は、浮世のいざこざを見ても、それに自分が働きかけることへの関心がほとんどない。
そんな彼が言った言葉に、ピンと来るものがあった。
「 人は、心ひとつで、鬼にも仏にもなる。」
僕が、ひねくれているだけなのだろうか。
世界中のほとんどの人が、自称、仏の ‘ 無自覚な ’ 鬼になっているように見える。
その心は、仏と鬼、その選択に優劣をつけたら、僕たちは、そのどちらにもなれないということ。
いわゆる愛や正義という言葉や通念は、自覚的選択に寄与しないと、僕は思うのだが。
正直、僕も、仏の側でありたい。
只、その仏は、愛、正義、他者からの尊敬や感謝、そのようなものには関心がない。
彼は、鬼が悪事を働くのと同じように、只、人を助けるのだ。
あの映画の安倍清明のように。
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