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タモリの在り方 [いつまでたっても テレビっ子]

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 「笑っていいとも!」が終わって、一月が経とうとしている。

 あっという間に過ぎていった年月に驚くたびに、浦島太郎の玉手箱を思い出す。

 「何という年月が経ったんだ。」と。


 始まったものは、必ず終わりを迎える。

 「いいとも!」が終わった時も、そんな摂理を、改めて認識させられたような感じだった。


 タモリには、昔から、悲哀と厭世観のようなものを感じていた。

 僕は、お笑い番組を見て、人並みに大声で笑う人間ではあるが、その笑いは、「絶望の次の笑い」だ。

 タモリのことは、「オールナイトニッポン」の時代から知っているが、その頃から、彼は、悲哀を‘ 表現 ’する人(歌、小説)が大嫌いだと公言していた。

 そういうことを、聴取者がお笑いとして聞くことを想定していたであろうが、そこには、多くの本音が含まれていたと思う。


 そんな彼が出演したテレビドラマや、音源として発表されている歌から、僕は、リアルな悲哀感を感じ取っていた。

 それらは、彼が、自らの悲哀を表現したものではない。

 渡された脚本に即して演じ、おもしろアルバムの企画に沿って作った曲を歌っただけのこと。


    闇の中 カミソリの七つの月寒く

    空の果て 時流れ

    流れ流れたわが身

                (「惑星流し」  『ラジカル・ヒステリー・ツアー』から)


 タモリ演じる、とぼけた男が、いろいろな冒険に巻き込まれ、最終的に、宇宙の最果ての刑務所に収監され、監獄の小さな窓の外の真っ黒い宇宙を見ながら歌っている。


    帰るあてもなく 明日を待つ身

    微笑みまで消えさす

    虚しい窓よ


 もちろん、彼個人は、不幸ではない(はずだ)。

 芸能界で成功し、巨万の富も得ている。

 だが、おそらく彼には、成功以前、以降、変わらない芯の部分がある。

 それを、僕は、彼から、ある種の悲哀感として感じたのだと思う。


 「いいとも!フィナーレ」の後半、「いいとも!」の歴史と共に成長したタレントたちの多くが、タモリには怒られたことがないと語った。

 通常、人を怒る人は、自分に自信があるからである。

 そして、少なからずの人が、そんな人から怒られたいと望んでいる。


 タモリが、人に叱りつけるようなことがなかったのは、

 自信のあるなし以前に、自信を持つということ自体の虚しさを知っていたからだ。


 「いいとも!フィナーレ」に会した、第一線で活躍し続ける怪物たちは、それぞれが、自分を押し出し主張するフロントマンである。

 自信とプライドに溢れた彼らに、巨大な神輿として担がれたフロントマンが、彼らと全くの対局にあるタモリだったという事実は、感慨に値する。


 「いいとも!」の打ち切りが発表されてから、ネット上で、ダウンタウンと爆笑問題の共演の可能性が、繰り返し語られていた。

 それは、お笑い好きのネットユーザーの思いつきや捏造でしかない、いつものうわさ話だった。

 実際、番組制作者の進行では、これまで通り、共演NGの芸人同士は会わないように段取りされていたようだ。

 ところが、本番生放送で、それは起きた。


 さんま・タモリのトーク時間の長引き。

 しびれを切らして出てくるダウンタウン。

 松本の「ネットが荒れる」発言。

 それに呼応して、とんねるず 石橋が、爆笑問題 太田を引きずり出してくる。


 台本では、決して発想できない流れだ。

 直後、勝俣州和は、「いまのが(リハーサル通りにしないハプニング)『 いいとも! 』の集大成ですから。」と言い、

 爆笑問題の田中は、タモリへの贈る言葉で、「奇跡的なすごいこと」と表現した。


 部外者にとっては、たかが、お笑い界の人間関係の話だ。

 只、社会というのは、人間関係でできており、ほとんどの人間にとって、最もシビアに関心のあることは、この人間関係であることも、また事実である。 


 特に、そこに居合わせた芸人にたちにとって、その出来事は、確かに奇跡だった。

 が、その場の中心にいたタモリにとっては、意外と、それほどの関心事ではなかったのではないかと、僕は推測する。

 その奇跡的な現象が起きるためには、それに巻き込まれていない中心が存在する必要があったのだ。

 もちろん、彼は、そんな役割を自ら意図していない。

 その時間帯、番組主役の彼が、孤独にすら見えた。


 本当の悲哀を知る人は、悲哀をこれ見よがしに表現する人に、卑しさを見る。

 タモリは、そんな人だ。

 かつて、赤塚不二夫の告別式で、彼は自分を「あなたの数多くの作品の1つです。」と語った。

 意図的に名言を創作したように取る人も多いだろうが、これは、彼の正直な言葉だと、僕は思う。


 石橋は今回、それをパクッたというていで、自分を、タモリが残してくれた作品と言って一笑い取った。

 しかし石橋もまた、このパロディに乗せて、一抹以上の真実を語っていた。


 確かに、見出された人は、見出した人の、ある意味作品なのかもしれない。

 タモリは、作品を生きることで、欺瞞の外にいようとしているのだ。

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