微笑ませる記憶 [丘の上から]
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過去の出来事を思い出して、僕は、よく薄笑いを浮かべる。
いわゆる ‘ あの頃は良かった ’ というほどのことではない。
一番楽しかった時期を敢えて挙げるとしたら、たぶん、小学校の上級学年くらいだろう。
しかし、心に占めていた心配事の総量は、今と変わっていないと思う。
コンテンツが変わっただけだ。
今の感覚でいけば、もうすぐ歌のテストがあるとか、取るに足らないようなことだが、その頃は、そんな何がしかのことが、心の底の方にいつも横たわっていた。
小学校の時、既に、ああ、このことがあるから心から笑えないなぁ、と思っていた。
そのくせ、実際は、友だちと笑い合っている瞬間は忘れていたのだが。
大人になった今、子どもの頃にはなかった多くの ‘ おもり ’ を心に持ったが、お笑い番組を見ている瞬間は忘れて爆笑している。
その意味で、子どもの頃と、基本、変わっていない。
ジョージ・ハリスンが、ビートルズの世界的大成功の後、振り返って、いちばん楽しかった時期は、ハンブルグ時代だったと語ったという。
先の見えない出稼ぎ巡業とも言える、劣悪な環境下、過酷なスケジュールでのライブ活動をしていた下積み時代だ。
気持ちは分からないではないが、僕は、その感情を、記憶の欺瞞と呼ぶ。
欺瞞と言っても、悪いことではない。
僕の ‘ 思い出し薄笑い ’ も、その類だ。
思い出すのは、記憶の断片に過ぎない。
‘ あの頃は良かった ’ と思い出しているのは、今の自分の感情にとって都合のいい断片。
‘ あの時、ああしとけば良かった ’ という後悔は、その逆の断片。
それぞれ、そのときの周辺の記憶をつぶさに思い出していけば、それほど良くもなく、それほど悔いることもない、今、この瞬間と同じトータルな事象があるだけ。
たぶん、何も変わっていないのだ。
それを踏まえて、思い出を、僕は、今の幸せに使いたい。にやにやと。
只、括弧つきで一番楽しかった時期から、僕が確かに変わったことがある。
大人の演技ができるようになったこと。
人に気遣うこと、と言えば聞こえはいいが、要は、人に悪く思われないように振る舞うことだ。
僕が一番楽しかった時期は、同時に僕が無神経で、辛辣で、自己中心的で、残酷だった時期だ。
保育園時代からの友達に、
「おまえの言葉で、3日寝込んだことがある。」
と言われたことがある。
驚くべきことに、そいつは、今いちばん近しい友だちだ(親友という言葉は使いたくない)。
僕は、いい年になって、そいつに言ったことがある。
「できれば、俺は、あの頃のような ‘ きちがい ’ に戻りたい。」
彼は言った。
「あの ‘ 冷血 ’ にか。」
僕は、はじけたように笑ってしまった。
冷血と言われて、僕は、心から笑っていたのだ。
愛を語る愛のない人間をケタケタと笑うトリックスターのように。
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