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死刑制度か… ⅰ [丘の上から]

先日、鳩山法相の命により、昨年12月の3人に続いて、さらに3人の死刑執行が行われた。「わが国は凶悪犯罪に厳しく当たるべきだというのが世論の大勢だ。」と、彼は、その根拠を述べる。

極端に非人間的とされる行いをした者に対して、死すべきと思うのは、正常で自然な感情である。それゆえ、この感情との軋轢と矛盾を無視する限り、死刑廃止論は欺瞞でしかない。

目に星を輝かせて、「罪を憎んで、人を憎まず。」といういかなる実感ももたらさない奇妙な言葉を信じて、‘殺人者さんは、きちんと更生して、殺された人の分まで幸せになってほしい’とすら言い出しかねない人権派弁護士の姿は、僕には精神異常に見える。

にもかかわらず、僕は、死刑廃止遂行は、人が行う価値のあるものだと思っている。元来、人が、人を裁く権限を持つほどの存在であるとは、僕には思えないからだ。

それを前提にすれば、実害のある人を拘束したり罰を与えることは、社会機構を、とりあえず無事に維持させるための必要悪でしかない。多かれ少なかれ裁くという行為自体が、おそらく、人の実際とその行為に矛盾をもたらすものなのだ。そして、この裁くという行為の究極が死刑というわけだ。

 

 

 


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死刑制度か… ⅱ [丘の上から]

 人が行う(挑戦する)価値のあるものだと思っているとは言ったものの、現実にそれは、どのように可能なのだろうか。

 思うに、これは、教育と対でなければならない。

 真実かどうかを論理的に実証することは、おそらくできないと思うが、前提として、無残に殺害された者が100パーセントの被害者ではないという認識を我々が持つ必要がある。

 そのためには、まず、我々の中には必ず一定数の凶悪者が存在するということを予め受け入れること。これが基本である。単に、人を信じるなということではない。受け入れたくない事実を、ないものとして扱う欺瞞を捨てるということである。

 このことを、子供の時から教育機関で、自身のこととしてきちんと教える。

 この身の回りの社会集団の中には、必ず一定数の、自分を殺害し得る人がいるということを、客観的データを示して心得させる。そして、この認識がないことで起きた自分への悲劇の責任は、自分自身にもあると腹から自覚させるのである。

 別の視点から言えば、自分の不注意によって、自分のことを愛してくれている者を悲しませない責任を負うという自覚でもある。

  

 


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死刑制度か… ⅲ. [丘の上から]

 この自覚を持つことにより、身近で極端な悲劇が起きても、その人が恒久的に自己が支配されるような、いわば100パーセントの憎しみは生じないだろうと思われる。これで、たとえば憎しみの連鎖が一挙に止まるとは、よもや思わないが、それの絶対量は確実に減じるはずだ。

 先に述べた現実に基づいた認識が大多数の人たちに行き渡った時点で、死刑制度を廃止する。凶悪犯罪者は、一般市民の安心のために隔離するだけ、つまり終身刑にするだけで良い。それは被害者の報復願望のためでも、加害者を更生させるためでもない。只、凶悪犯罪者、つまり社会集団に対して殺傷等の実害を及ぼす可能性がある者から、そうではない大多数の人たちを今守ることだけが目的である。

 事実からの逃避に基づく理想は、身勝手な欲望が作り出す幻想に過ぎない。本来そうあるべき、そうあってほしいという観念が事実の前に壁を作る時、それを無視したことによる悲劇が死角からやってくる。

 事実を見て、応答し、対応する。

 最善の行為はとてもシンプルなのだが、そこが誰もやろうとしない理由でもある。

 

                                     了

 

 

 


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