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苦痛が開示するもの [出かければ場違い ─僕と‘外’の関係─]

 個は、錯覚する。
 しかし、自然法則(諸法)は錯覚しない。
 個は物語を作り、その中に生きる。事実というテニスボールが、個に当たる時、その表面には自我という壁があり、その跳ね方を、個は知覚として認識する。個性とは、自我のデコボコが作り出す独自の模様である。
 よって多くの場合、テニスボールの入射角と反射角は一致しない。自我がある限り、入射角(事実)を正確に把握することはできない。そして僕たちは、反射角の集大成で事実の物語を作っているのだ。たとえば、私はこうである、貴方はそうである、というように。
 物語=事実。この信仰は、個(正確には‘私’)にとって最も重要な信仰である。僕たちは、この物語を守るために、無意識に、素材(反射角で得たデータ)を取捨選択するのだ。
 僕たちは自我の要請を前提にして、事実認識を構築している。また、その素材への解釈を以って事実にせまろうとしている。そんなことが可能だろうか。
 自我の希望に基づいて作られた物語は、錯覚による幻想を維持するのみだろう。
 そこを脱出するには、反自我的行為が必要である。自我に沿うことは快楽であり、自我に反することは苦痛である。
 何が、反自我的行為を意図するのだろう。自我かもしれない。あるいは、自我の自己保存欲求からくるものではない、もっと根本的な‘苦’に触発された何らかの精神作用かもしれない。
 心理的苦痛が起きる時、あるいは、それに飛び込む時に精神に起きる現象を自我(思惟、解釈)から離れて観察し、感じること。それしか、事実を発見する方法はないのではないか。
 だから僕は、淡々と、自我が抵抗するところに飛び込んでみようと思った。


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