優しく‘なる’ことは可能か ⅰ [見て取られた自己]
僕は、僕の心を追い込むことを得意としていたようだ。
よって、人を追い込むことも不可抗力的に得意だったようだ。
人に思考がある時、同時に、自己内に分裂がある。
思考は、言葉で作り上げた他者である。
自己は全てと一体であり、そこから限定的に切り離した他者が思考である。
つまり、思考とは、「意識できないが基調感覚としてある自己」と「意識された限定的な自己(私として浮上した他者)」の関係を、自分の中に併せ持っている状態だ。
そして、その関係性が、実際の他者との関係性の感覚を作る。
図らずも人を傷つける人。
人を決して傷つけない人。
どちらの危険度が高いかは、微妙だ。
一見優しい後者は、傷つけないポイントが分かっている。それゆえに傷つけるポイントも分かっている。やろうと思えば、効率的にピンポイントで人を徹底的に傷つけることもできる。
今僕は、自称、人を傷つけないポイントをわきまえた人間だが、小学校の頃は、ずいぶんと毒舌だったようだ。友達が呑みの席で回想して言うには、彼は僕のひと言で、「3日間寝込んだ」そうだ。
これには笑った。僕は金輪際、自分を優しいなどと勘違いすることはないだろう。
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