自発性を探せ!② ─3つの行為─ [俯瞰日記]
何をするにも、持続しない。
読書も2ページが精一杯だ。
まるで、無気力症候群、いや鬱病患者の闘病記のようだ。
現場の作業に入るよう言い渡されたのが、確か8月の第2週だった。8月中に現場の指導を受け、作業のノウハウを習得して、9月から正規の時間帯での戦力として、週2日は入れとの指示だった。
僕は、いまだ1回しか入っておらず、今日9月17日に至っている。
やれやれ、生活の昼夜が逆転のPL(いつの時代だ!)して久しい。夜寝ることができない。と言っても、不眠症などといった高尚(?!)なものではなく、基本は、だらだらとテレビを見て時間が過ぎていくパターンにはまっているだけのことだ。
だが、もう一つ、やや尤もらしい言い訳もある。
‘今日’に、終わりを認められないという心理だ。
どうやら僕は、寝なければ今日が続くと漠然と思っているようなのだ。他人には、なかなか伝わりにくい感覚かもしれない。
電灯を消して、さて寝るという行為。それは、僕の人生のトータル時間の中の1単位である‘今日’の終了を、自分に承認するということだ。
それが、僕には、ほとんど毎日できないでいるのだ。
‘まだ、今日を終わらすわけにはいかない。’
その時間、具体的に何か自分ならではのことを自発的にやっているわけでは、もちろんない。ちまちま、ゴソゴソと何やらやっているだけのことだ。テレビ、パソコン、マスターベーション、そんなところだ。
Oh! 僕は今、僕に暴露している。
敢えて、この下らない生活状況を書いてみると、改めて、自分の凡庸さ、日々がパッとしないという、その必然性が、より分かる。
《それが、おまえの人生の姿だ!》
たまたま、僕にはニートであった時代はない。と言っても、大学卒業まで親から多くの恩恵を受け(たぶん金額にして、平均の倍くらい)、未だ何も返せていない。資質的には、ニートとかなりダブる。
たまたま、僕はワーキング・プアではない。
今の会社に、巡り合ったからだろう。冒頭に書いたような僕の状況に対して、何のお咎めもないような会社に。
僕は、感謝すべきなのだろう、たまたまのこの状況に。
だが、厄介なことに、僕には、いわゆる恩返しをしたいという感覚が自然に生じてこない人間であるらしい。最近、そんなふうに得心した。
この事実は、恐らく、多くの人に憎しみ、あるいは憐れみの感情を生ぜしめることだろう。
ここで、また、僕は、自発性という言葉に思いを凝らしてしまう。
人に行為が生じる原因として、僕は、大きく3つあるを考える。
①自発性、②義務感、③強制だ。
この3つの内、どれかがなければ、人生は停滞する。大部分の人は、この停滞を苦痛とし、少なからず恐れるのではないだろうか。
だから、①の自発性はもちろん、②の義務感も湧いてこない時、③の強制すらありがたいと感じ、受け入れる。「誰か、俺に命令してくれ。」「俺はどうすればいいのか教えてくれ。」等々。
普遍の個人がないように、普遍の答えなどない。
この闘いに、同志はいない。
どこまでも、個人の闘いでしかない。
彼が、自発性の探求者である限り。
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