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自発性を探せ!④ ─民主主義と僕─ [俯瞰日記]

朝10時過ぎに、自宅のPCで、今週のシフト予定表を本部に送る。ここから業務開始として、もう一眠りする。12時過ぎ、TVの『いいとも』の騒がしさで目を覚まし、会社へ行く支度をする。このところのお決まりパターンだ。

 

 

会社に着いたのは15:00。昨日の夜は、小さな缶ビール1本だけだったせいか、少し体調がいい。現場に夕方から入って‘研修’を受けるか。物理的には不可能ではない。

だが、やはり気が進まない。

気が進まない。これが、無意味な停滞をもたらし、やがて時間切れになる理由の全てだ。

僕は、たぶん、反社会的な人間なのだろう。

社会から恩恵を受けている。それなしに、僕の生活は成り立たない。なのに、恩義を感じていないのだ。

社会と言えば、女子高生の間で、今KY(=空気が読めない)という言葉が流行っているという。

こないだ爆笑問題の太田が番組内で、それに対して、「人がどう思うのか、そんなに気になるのか!」と、彼独特の声の唸らせ方で述べていた。

何のことはない。空気を読む=社会性も持つ。これだけのことだ。社会内で生きている以上、個々が持つべき必要なアイテム。大昔からのことだ。いつの時代でも、これを無視する者が一定数を超えたら、程なく社会は崩壊する。個々の人権、人格、個性、自由の尊重を小学生のガキ共に適用したら、途端に学級が崩壊したように。

渋谷の女子高生たちは、野放しにされて個々の自由を満喫、謳歌できたかというと、そうではなかった。小さな仲間という社会集団を形成した時、全体の無秩序をもたらす者は、やはり彼女らにとっても実感として不快だったのだろう。そういう意味では、KYという言葉を作り、社会性の必要性を彼女らが重んじたことは、自然発生的であるだけに、実のあることだと言えるのかもしれない。

道徳。その価値の多くは、社会を無事に維持するための実効性にある。

そこに、思弁的に理想や、正義の概念を潜り込ませることで、話はおかしくなる。

多くの人は、道徳の基盤となる根拠を‘人間性’と呼ぶ。だが、それらの人たちのほとんどは、その人間性とやらの根源を見てはいない。見たことも感じたこともない幻想上の理想を、目に星を光らせ悦に入る快感のために信じているだけだ。

そういえば、民主主義を至上のシステムとして盲目的に信じている人たちも、そんな類の人たちなのだろう。彼らは、このシステム自体が、社会の未来の安泰な秩序維持を担保すると、何となく思っているのではないか。

結果的には、毛沢東の文化大革命が正しかったんじゃないかと思わせる日が、あるいは来るかもしれない。

そんな日が来ても、「僕たちで決めたことだから、何の不満も悲しみもないよ。」と、笑って最後の日が迎えられる。民主主義を信奉するとはそういうことだ。

僕が、もし民主主義教の教祖に就任したら、国民たちを、こう説得するだろう。

「民主主義とは、貴方たち大多数の深層の共通の‘人間性’が未来を選択するというやり方です。我々の深いところにある‘人間性’には確かな知恵があり、決して誤ることがないのです。」。

つまり宗教なのだ、結局。根本のところは、‘願いで信じる’というものだ。

願いと言えば、聞こえはいいが、結局、自分たち人間集団を無事に維持したいという欲望に過ぎない。

自然は、もとより、欲望とは関係のない次元で秩序を持っている。

人間社会に形成されてきた秩序は、元々、それとの調和と個々の自然な感受性から生まれた側面を持っていたのであろうが、それがシステム化されたら、形骸化が起き、やがて実感を伴わない形式になる。そのため、意味を持って生まれてきた‘常識’も、それが根無し草になることで、人の自然な振る舞いを後押ししなくなった。

後押しを失った家庭は子供に社会性を育めず、社会化機関としての学校も無秩序化しつつある。

そんな中、安倍首相の正義感は、社会にそっぽを向かれている。彼の正義感は、『美しい国へ』に、よく表れている。要するに、真の政治家は、自分につばを吐いたり、自分を誤解して憎む人をもひっくるめて、結果として全体を助けるというものだ。

事態は、「これでもか。」と言わんばかりに、安部首相にとって不運とも取れる困難を次々ともたらしている。これが民主主義だ。

対して、「国民はよく見ている。よく分かっている。」と主張する民主党の議員に、自己欺瞞感はないのだろうか。テロ特措法がどうしたこうしたと言っても、事実として、日本国民の半数は、集団的自衛権の意味自体を知らない。これが民主主義だ。

実は、関係ない。制度も、運動も、動向も。基本的に、僕のあり方と関係ない。

自分自身を知らない限り、全ては無意味であるから。

人間性──。 僕は、この言葉の正体を、あらゆる偏見と幻想を超えて、自分自身の中に見出すまでは、決して使いたくない。ましてや、自分の見解の根拠に置くなど、もってのほかだ。

「人間性の大切さ。そんな簡単なこともわからないの~? かわいそうなひと~。」と言う人たちが無自覚に信じる‘宗教’のことを、僕は肯定も否定もしない。

只、単純に、僕はその宗教の信者ではない。それだけのことだ。


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