自発性を探せ!⑤ ─問いかけとしての行為─ [俯瞰日記]
代休日。
それにしても、ストーリーが起きない日々が続く。
今日は、比較的早起きして(と言っても10:30)、買った女と小一時間ホテルで過ごした。本番はできなかった。まぁ、だめモトの結果だ。そういう契約なのだから。
インリン・オブ・ジョイトイに似ていた。そのことを言ったら、「すごく言われる。でも、M字開脚はできないよ。」と言って、彼女はホテルのドアの向こうに消えた。
そんなことで街に出掛けたついでで、電源の入らなくなったアイロンをビックカメラの修理窓口に持ち込んだ。図らずも、新品と交換してくれた。喜ぶべきところだが、大して嬉しくない。
部屋に帰ってから、貸し出し期限オーバーの本を図書館に返し、洗濯を2回しただけで裾上げ部分がほつれたスラックスを、買ったデパートの店に持っていった。やり直してくれるという。
僕にしては、なかなか充実した休みの使い方だったかもしれない。充実感はないが。
やはり気になることは、現場作業の研修に行っていないこと。前回行ってから、まもなくひと月が経つ。
やれやれ。懸念がだらだらと続いている。
変化を持たすために、実家にでも帰るか。新幹線使って片道5、6時間。微妙な距離だ。そこそこの決心がいる。
そうだ。何かにつけ、今、僕には決断力がないのだ。決断にもエネルギーが必要だと実感する。
能動的に一つの行為を選択しているのではなく、面倒くさくて何もしないということで、結果的に、不作為を選択した形になっている。
あぁ、何が起きているのだ、僕の人生に。
自分の意思で為す行為は、‘世界’への問い掛けとも言える。その行為が意識的なら、対する結果を、答えとして気づくことができる。つまり世界と、コール・アンド・レスポンスで繋がれるというわけだ。
そういう意味では、僕の今には、因果関係がはっきり認識できる行為がないと言えるだろう。
何もしないことの恐怖。何の進歩も成就もなく、只、時間が過ぎていくことの恐怖。
だが、特に何もしていなくても、生きていることそれ自体、何かしらの行為と一体である。時間と運動が一体不可分であるように。
この常に横たわる恐怖は、たぶん僕が、行為に優劣をつけたところから始まっているのだろう。いわゆる実績が見える状態をもたらす行為に価値があり、そんな行為がない状態が続けば不安になる。何の価値もない、つまり、ひとかどの人間になることなく人生が終わってしまうことへの恐怖によるものだ。
実際的で主体的な幸福を望んでいながら、尚、他人の評価によって受けられる幸福を求めている自分がいる。
僕は、どうすればいいのだ。
ん? どうすればいいかだってぇ?
この言葉は、とにかく良い結果が欲しがっているという、自分のあり方を示している。自らの明確な意思以外の行為によって、良い結果を得て、何の意味がある?
《なんか、面倒くせぇ野郎だなぁ。おまえは、何を望んでいるのだ。》
悲しみからの自由。恐怖からの自由だ。
などと、のたまいたいところだが、本当のところ、怪しい。
単純に、いい女とのセックスとか大金を得るといった分かりやすい欲望の達成が第一の望みなのかもしれない。
僕に分かるのは、日々の行為が葛藤と矛盾に満ちているという事実が、僕が僕を知らないことを示しているということだ。
だから、自分を知ることが、全てに先立つのだ。
結局、空しい正論に行き着く。
ないものねだりか。
でも、どうして行為に決心が必要なのだ、いちいち。
決心。僕にとって、それは、‘えい’と、葛藤を抑圧する手段でしかない。
この悲しみの闘いを終焉させるもの。それが、‘自発性’なのだと、僕は思う。
コメント 0