自発性を探せ!⑦ ─悲劇との共犯関係─ [俯瞰日記]
夜に寝ない生活が続いている。
うだうだしていたら、朝の9時だ。
今日は、研修の現場(「自発性~ ①」)に入る気がもとよりない。
管理事務所に行こう。
着いた時は、夕方だった。
スタッフ管理の事務処理を少しして、今日の仕事は、実質終わり。
マスコミが活気づいているようだ。
彼らは、事件を燃料として生きている。「前代未聞じゃないですかぁ?」と深刻な顔で、内心、興奮の快感を味わっている。
報道番組のセンセーショナルな効果音や映画まがいのカット割りを見ていると、少しほっとする。どんなに悲劇的な出来事が起こっても、深刻になる必要はないんだなと。現に、ほら、彼らは、何でもショーにして、エンターテインしているじゃないかと。
皮肉でない。
彼らは確かに、凶悪犯罪者の存在も、不条理に悲劇に巻き込まれた人をも、真顔で自分の仕事の充実感の材料にしている。
彼らにとって、本当の悲劇は、社会の平穏が続いて、人間の不幸のネタがなくなってしまうことなのだろう。
マスコミの人たちは、悪魔的な快楽を享受していながら、誰にも非難されないための大義名分がある。‘我々は、受け取り手のニーズに応えて、事実を伝えているだけだ’という。
その通り。送り手と受け取り手は相補的だ。
受け取り手にとって、退屈から回避は、快適に生きていくための必須事項だ。
送り手は、それを助け続ける。
安倍首相が、テレビに特番のネタを与え、それが僕たち大衆の酒の肴になる。
僕たち大衆は、精神衛生上、自分と程よい距離をおいた事件を常に必要としている。隣の隣の凶悪犯罪。海の向こうの殺戮、テロ、戦争。
もし、世界の戦争、テロ、飢餓がなくなったら、平和運動家は、退屈をこじらせて鬱病になってしまうかもしれない。
幸か不幸か、ニュースショーの存在そのものが、僕たち大衆に、常に、こう語りかけてくれている。
‘おまえら、深刻になるなよ。結局、深刻なことなんて何もないんだよ。現に、俺たちは、どんな悲劇が起きても、反射的にその演出、構成を考えて、興奮の中で、そのニュースクリップという作品作りに取り組んでいるんだぜ。おまえらを退屈させたくないからな。’
そんな人間の姿の実相を見て、僕は、無自覚な、刺激提供者のお世話にならないで、幸福な状態であることを望む。
たとえ、本当に平和で自由な世界がやってきても──それは、つまり現在の大多数の人間が地獄と感じる日が訪れてもということだが──、僕は、尚、幸福な状態で生きたいから。
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