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幸せの責任 ──小田和正論── ⅱ [古典ポップス体験]

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 ‘僕ら’は、不可効力的に誰かを好きになり、そして不可効力的に切なさを享受する。
 「その切なさがいいんじゃん!」と、少なからずの人が言うだろう。
 そんな人たちからの非難覚悟で、1つ確認しておこう。切なさ──。さも、それは甘酸っぱくて、ときめきを含んだ、どちらかというと良いものですらあるという前提があるようだが、しかし一方でそれが精神に痛みをもたらすものであることも確かな事実であろう。
 さて、そんな精神的苦痛の基本的な働きは、心を傷めることである。そして、一般にストレスがしばしば身体の病気をもたらし得るように、切なさからくる心理的苦痛もまた、間接的に身体を傷める可能性が大きいことは十分に考えられる(かつて僕は、恋患いであまりに胸が痛くなった時、本気でオヤジの「救心」(心臓薬)を飲もうと思ったことがある(?!))。
 そういう苦痛をあまり繰り返すと、だんだん無思慮には恋に近づけなくなる。恋に臆病になるという表現があるが、これは只単に、心理的にもう傷つきたくないというおセンチメンタルな理由からだけではなく、自分の身体の損傷を避ける本能から来ているのかもしれない。
 身体を具体的な意味で悪くしたら元も子もない。ここ一番、大好きな恋人と、いよいよ戯れる段階に来た頃には、瑞々しい恋の感性まで疲弊してしまっているなどという愚の骨頂的事態もあり得る。
切なさの苦痛は、もういい。十代までで十分だ。身体の耐久力は有限なのだという事実を、(特に二十歳代後半以降は)踏まえていないと、それはそれで実を失うことになる。
 とは言っても、きっと誰もが経験上知っているように、恋のときめきは、いかんせん切なさとのコントラストで成り立っているのだ。
 となると、結局、切なさは切なさで不可欠!
 やれやれ、じゃ、どうする?
 恋に不可欠な切なさを保ったまま、そこからの苦痛という実害を最小限に留めるのさ。
 そんなことできたら誰も苦労しないよって?
 でも、もし、切なさをうまく対象化できたら。それは不可能ではなくなる。つまり、切なさの苦痛をそのまま受けないで、恋を味わうという画期的な方法が成り立つはずである。
 だが、それは、よし、対象化させようという意思だけでできるものではない。そんなに甘くない。 気がついたら、やはり切なさが順当に感情を捕らえていることだろう。
 問題は、この対象化が、どのように可能なのかだ。
 小田は、それを、曲作りという作業を通してやったのではないかと、僕は思うのである。

 

 
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