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負けん気発揮 信念の人 [丘の上から]

 信念。プライド。負けん気。
 これらは、人をして、持続的な行為にかりたてるエネルギー源となる。
 信念。これを持つことを、基本的に人は是とする。
 ところで、信念とは何だろう。
 それは、知識量が拮抗した者同士の白熱した議論を見ている時などに、よく顔を出す。発展的議論と言えば聞こえはいいが、実際のところ、少し引いて見れば、そこにあるのは、お互いの信念の戦いである。
 この世界は限りなく多様で、無限の事象があり、そこから、あらゆる人によって抽出された知識の総量は、途方もなく膨大である。それに比べれば、いかに博覧強記で鳴る個人も、その知識量は、一個の点に過ぎない。
 個人の知識に基づいた判断には、必ずそれに反した意見の根拠が存在する。
 その事実を踏まえたら、テーゼに対して、常にアンチテーゼが起こり、そして2つは止揚され、ジンテーゼが生まれ、それが発展した次のテーゼとなるといったお馴染みの解釈は、ほとんど役に立たない。
 一般に起きている人の議論を見ている限り、誰かが唱えるテーゼには、予め、アンチテーゼの根拠が、この世界には常に用意されていて、そのアンチテーゼ(視点を変えればテーゼ)に対しても同様である。
 人の議論の中で、歴史の選択の中で、また個人の思考吟味の中で、縄の目のようにひっくり返し、ひっくり返されるダイナミズムの線上で、個人が、たまたま立ち止まった点があり、その偶然の点を普遍視したもの。それが、つまり信念なのではないか。
 大学の学生紛争が盛んだった頃、血気盛んな学生は、自らの信念に基づいて、歌舞伎の見得のような形相で自己主張し、時に、運動の過程で命すら落とす者もいた。だが、その強い信念を醸成させたセクトに所属したきっかけは、新入生の時、キャンパスでたまたま最初に受けた勧誘だったりする。
 
 信念は幻想。そんなふうに僕が言ったら、多くの人に、冷めた相対主義者として扱われるかもしれない。
 僕は──、探求している。そして生憎、探求には、信念に基づく機械的な自己主張以上の情熱が必要だ。
 個人の認識力は、あらかじめ限られている。そんな人同士が、結局、信念の争いに陥る。その光景を、つぶさに見ていると、彼らにとって最も重要なことは、何が正しいかではなく、‘私が正しいこと’なのである。
 そして、説得力に長けている者が議論に勝つ。そこに勝者はいるが、真実はない。
 
 原理的には、信念から離れて議論すれば、そこにいる人たちから等距離のところに真実があぶり出されるはずである。
 それが可能になるのは、何が真実なのかそのものへの好奇心が信念を上回った時のみである。 
 真実が露になった時、‘信念の人’が大好きな「勝者」は、どこにもいない。

 

 

 

 


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