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怠惰について [見て取られた自己]

 怠惰とは、何だろう。
 これは、僕にとって、僕の存在そのものへの問いである。
 僕は、人一倍、怠惰である。
 臥薪嘗胆という言葉の由縁が示す通り、一般に人間は自然状態では、頑張ることを巧く避け、そのプロセスを感じないようにするものなのだろう。だから、成功者(出し抜いた少数者)が存在できるとも言える。
 たとえ、それが、やりたいことであっても、好きなことであっても、多くの場合、大成までのプロセスの全てが、そうであるとは限らない。むしろ、そうでないことの方が多いのではないか。
 どうやら、怠惰でないことが、成功者の重要な必要条件と言えそうだ。
 僕のような一般的な人間が、頑張ることを簡単に放棄することで、少数の成功者の存在が存在し得る…。
 一見、胸が悪くなるようなネガティブな考えに聞こえるが、それは、成功者、つまり抜きん出た存在になることのみに価値があるという前提を持っているからではないか。もっと言えば、僕たちの多くは、「ひとかどの存在になれないこと」への恐怖すら持っているのではないか。
 僕たちが求める幸福は、結局、他人の承認に依存している。なんだかんだ言って、他人の承認の総量に、その人の幸福度、満足度は比例しているのである。
 只、好きだからと言って、絵を描く、音楽を作る、文章を書く。それだけで、人は満足できるものではない。自分の作品が評価されたり、高く買ってくれたりすることで自分を確認して、僕たちは初めて幸福になれる。
 そうすることそれ自体で満足が得られるのは、3大欲求くらいなものだろう。
 
 只、成功するしないを一旦おいても、怠惰は、それ自体が今の幸福を損なうと、僕は感じている。
 そういう意味で、その克服は、僕にとって全く個人的な課題であり続けている。
 とても疲労困憊した状態でも、押してタスクをこなすべき局面がある。その時その都度、僕は自分の置かれた具体的状況の中で、必要な‘頑張り’を正に放棄する、「怠惰の現行犯」としての僕を発見することが、僕にとっての肝要である。
 だがそこで、こうすべきだと自分を強制するのではない。その発見を重ねること自体に意味があるように思う。
 それは、以前、話題を呼んだ岡田斗司夫氏のレコーディングダイエットに少し似ているが、実際に出来事をメモに取るのではなく、僕の場合は、自分がしている事実の体験を、その都度はっきりと‘見る’(自覚する)ことで記憶(記録)していくという方法である。
 行為を起こす‘頑張り’には当然、その時の具体的行為のために供給するエネルギーが必要なのだが、それを引き出すには、インセンティヴ、あるいは、そうしなければならない必然性が必要だ。それは、国家予算から、自分が必要と考える予算割り当てを獲得する代議士の活動のようなものだ。国家は、いざという時のための埋蔵金を、なかなか出そうとしない。現状維持、踏襲に留まろうとする。そんな時、あえて行為を起こすのは、実効性のある技術を持ったやり手の代議士なのだろう。
 少なくとも‘頑張るという掛け声’は、僕にとって有効ではない。有効なのは、その都度の状態の認識あるいは想起への注目である。少なくとも、それで、無意識に今やるべき行為を先送りしてしまうことを避けることができる。そして、その認識の経験を重ねることによる記憶の蓄積が、行為を促すのではないか。
 まだるっこしいやり方だが、これが、怠惰を本質的に克服する方法だと、今は思っている。

 

 

 

 


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