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本当の望みって何? [僕の こじつけシンクロニシティ物語]

 ビデオデッキのハードディスクが突然、異常をきたして、録っていた番組が全て見られなくなったことが決定した時、残念な気持ちより、どこか解放感が生じたことは、以前書いた(「励みと慰め」)。
 この不安定なデッキを使っての予約録画の日課は相変わらず続いている。そして、時々、少し溜まった番組がパーになる、といった繰り返しだ。
 今日、また10番組くらいが‘強制消去’となった。
 
 僕にとって、テレビが麻薬のような存在であることはまちがいなく、それゆえに、外からの強制的な静止がないと止まらない。
 この出来事、つまりビデオデッキの機能異常は、自助努力ではどうにもならない僕への、ありがたい外からの働きかけと言うべきかもしれない。
 
 馬齢を重ねるという言葉があるが、その原因がテレビ…。
 情けない話ではあるが、事実である。
 僕は、これに多くの時間を、確かに費やしてきたのだ。
 
 今の仕事を充実させること。新たな業務を創造すること。日々発想されたことを文章で表現すること。オリジナル楽曲を作り、それにより客観的に自分を見て、表現された意味(自分)を知ること、また、その事実自体によって癒されること。
 そんなことに使うべきと思われる時間のほぼすべてを、僕はテレビに費やしてきたのだ。
 しかも、そのこと、つまり有限である生涯の時間幅が時間つぶしに使われていることの恐ろしさを頭で十分に知っていながら、尚、そうしてきた。
 
 麻薬に例えても、それほどの過言ではないだろう。
 話題続きののりピーは、逮捕前、実刑を受けないための工作で相当あがいたみたいだが、捕まってみると、自分でも意外な安堵感を感じたのではないか。 
  
 時々気まぐれ的に、僕が予約録画した大事なテレビ番組を抜き打ちで消去してくれるこのビデオデッキに、きっと僕は、心のどこかで感謝している。
 その事実が、新しいビデオデッキを新調しようというあたりまえの発想にブレーキをかけているのだ。
 
 人間は、基本的には自分の望みに従って行為しているのであり、結果としての実際の行動が、その人の望みだとしたら、究極、只それだけのことだとしたら、衝動に流されること(テレビ番組のエンターテインメントを堪能すること)が、僕の望みであり、常に僕の心に横たわる葛藤は、無用の長物ということになる。いや、無用の長物どころか、僕の人生の今の心を不幸にする実際的な働きを持っている。
 その不幸感が、僕に問いをもたらす。
 本当の望みと、そうではない望みがあるのだろうかと。
 としたら、それらを分断しているのは、何だろう。
 あるいは、その分断自体が、葛藤、それに伴う苦痛の原因の全てなのだろうか。
  
 契機を示すことによって人間(個人)を助ける働きが、シンクロニシティにあるとしたら、ビデオデッキの機能異常というこの非日常的な現象は、僕の本当の望みというものが、発動が妨げられた状態で確かに存在していることを示唆している、と取れなくもない。
 
 ニュートラルな位置に立とう。
 それは、所詮、‘解釈’に過ぎない。
 僕にとって、この‘解釈’は、とても悪名高い行為だ。
 解釈こそが、人をして真実から遠ざけるものであり、何より、あの醜悪な様相を示す妄信者を生む源泉だからだ。
 それを踏まえて、僕は、進まなくてはならない。
 だから、僕は、ずっと問うてきたし、これからも問い続ける。
 解釈を要さない、理解というものがあるのだろうかと。

 

 

 

 

 

 


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