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フィールドワーク・ライフ [僕の こじつけシンクロニシティ物語]

 いわゆる宗教の盲信者は、その教義に合わせて、日常の生活に起きる出来事の因果関係を解釈する。
 宗教に盲信していなくても、誰でも多かれ少なかれ、起こった事象の意味を、物理的な因果関係以外に求めることは、よくあることだ。 例えば、何か悪いことがあったら、なんで他ならぬ自分に、こんなことが起きたんだろうと考えてしまう。
 「バチが当たったんだよ。」と、友達が冗談で言う。
 それに笑いながらも、少し考えてしまう。
 「自分のどの行動が、こんな悲劇を引き起こしたのだろう。」と。
 何らかの宗教を信じている人は、そこから神のメッセージを読み取ろうとする。
 そして、心当たりの記憶を編集して因果関係の物語を作り、反省したり、恐怖を抱いたりして、それが、その人の以降の行動原理に反映される。
 だが、その物語の内容を仮に具に聞いたとして、他人から見て客観的説得力を持つものは皆無であろう。
 所詮、それは、小さな個人の脳内の物語(信仰)に過ぎない。
 その物語(信仰)によって(時には特定の宗教教義に適合させて)、幸せになれる人は、それはそれで良いことなのだろう。
 だが、どうやら、この世界には、そんなプラシーボ効果がよく効く人(妄信力のある人)もいれば、全く効かない人もいるらしい。
 つまり、自分にとって幸福な物語を構築して、‘それを生きる’ことで幸せになれる人と、そうでない人がいるということである。
 僕は、筋金入りの後者である。
 かつて、ジョン・レノンが、「GOD」(神)という曲で、
        God is a concept
と唄った。
 誰もが、個人的な経験と解釈によって、自分の物語の中で神の概念(concept)を作り出し、それを想い、祈っているという事実。
 これは、僕の側の人間が第一に踏まえておくべき前提である。
 前提?
 そこから先があるだろうか。
 そう問う僕は、それゆえに無神論者ではない。
 といって、信じる対象としての神の概念はない。
 そういう意味では、あらゆる教団宗教のバカ信者のように、神を信じてはいない。
 只、この世界の神秘の働きに直接触れたいという衝動的希求があるだけである。
 そういうわけで、僕は、人間の脳の癖によって、日日、不可避的に作られ既成化された恐怖や願望から成る物語の否定から始めなければならない。
 そこで浮かぶことは、起きたことを解釈せずに理解することができるだろうかという問いである。
 僕は考える。そのために実際問題として、僕(人間)には、何ができるのだろうと。

 そして、思いついたことは、

  日々の生活空間をフィールドワークの場として生きること

だった。 
 何気ないこの日々の生活空間の場で、いつも何かが起きている。そこに神秘は常にあるのだが(戦略的信仰)、解釈という機械反応的動作により、知覚(理解)が妨げられているとしたら、それをまずストップさせる必要がある。
 もし、起きたことに何か‘示唆’が感じられたら、そこが、調査領域(フィールド)である。僕は、その時、馴染みを離れたその出来事を唯、描写する。そして、落ち着いた時間に、その事実自体を可能な限り、公平に見てみるのだ。言うとあっけないが、本当に、事実できることは、それだけである。
 理解が‘やってくる’かもしれない。
 それは、やってこなければならない。ここになければ、それは虚偽だからだ。
 どうしても、僕たちは、論理(時間)という橋を使って、理解に達しようとする。だが、橋の先にある理解は、幻でしかない。
 ここ(現在)だけが、存在であり、真実を知覚できる場なのだ。

 

 

 


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4月7日(火) 気がかりへの返信 [僕の こじつけシンクロニシティ物語]

 僕は、来週のスケジュールの組み立ての心配をしていた。
 毎週、自分が管理するスタッフの就業予定表を作って、各人に通知しているわけだが、来週は調整が難しそうだ。
 派遣先の会社の1つが年に4回の変則日程の週だからだ。スタッフが協力してくれなければ、そこの作業の穴埋めは僕がしなければならない。穴が埋められなかったら、最悪、その取引先を失うことになる。
 この、年に4回訪れる週は、いつも綱渡り的予定の作成を余儀なくされる。今回は、特に、スタッフが一人減っているので、予め、先方の部長に来週の具体的ニーズを聞くのが億劫になって先送りにしていた。
 
 図らずも、その部長の方から予定ニーズを告げてきた。
 これは異例のことだった。これまでは、こちらから聞いて初めて、調べてもらうというのが常だった。
 何となく、意味を感じた。
 というのも、今回は特に、僕が、スタッフの協力の度合いや成り行きそれ自体への不信感に気持ちが傾いていたからだ。

 物語で意味を作ることは簡単だ。
 また、あえて外からの視点を持って、よくある偶然として説明することも簡単だ。
 だが、僕は、今回、先方の部長が突然、予定ニーズを告げてきた瞬間、理解するべき意味があるかもしれないと思ったのだ。

 

 


 


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Re:気がかりへの返信 [僕の こじつけシンクロニシティ物語]

 躊躇して不作為となっている状態に対して、その僕のやるべき行為の結果が向こうからやってきた。
 夜、その出来事を思い出して、それに向き合っていたら、‘勇気’という言葉が想起された。
 勇気。この言葉について何か言っても、ベタな響きの話にしかならない。
 ♪人生、勇気が必要だ(水戸黄門)とか。
 あえて辞書を引くと、「物事を恐れない強い心」とある。
 僕にとって、勇気を発揮するというのは、感覚的に、実行がかなり難しい高いハードルの場合を指していたように思う。
 だが、今回の出来事に向き合っている内、勇気には多くの段階と種類があり、それぞれに様々な難易度があるということに思い至った。それは、発揮することが比較的た易いレベルの勇気が、常に身近に存在しているということである。
 辞書の意味にも表れているように、勇気とは、あえて恐怖を超えてみる行為と言える。それを発揮するネタは、生活の中で、刻々にチャンスとして細かくちりばめられている。
 例えば、クリーニングに出す機会を何となく保留にしてある衣類を今あえて出すとか。
 一見、勇気とは関係ない行為だが、あえて踏み出すという意味で、これも勇気である。
 恐ろしく小さく微分されたような勇気だが、それが勇気である限り、それは別のレベルの勇気と連動しているのではないか。そして、その行為が次のレベルの勇気への連鎖のサイクルを呼ぶのではないかと思えたのである。
 ギリシャ哲学に由来する西洋古典世界では、基本的な4つの徳の内の一つに「勇気」を入れている。
 古代ギリシャの哲学者は、精神的自由を求めたのだと思うが、そのためには、やりたいことを実際にやる勇気が必要なのだと彼らは考えたのではないか。
 僕の考える、また求める勇気が発揮される状態とは、その行為をする際に、恐怖の束縛から自由であるということである。
 つまり、えい!と無理して葛藤を振り払うのではなく、実行される時点では、恐怖が恐怖でなくなっているという状態である。
 僕が今回の件に向き合って得た実感的思いは、勇気というものの、その大小を超えて貫かれている本質的意味だった。
 それは、可能な行為を今あえてやる時のちょっとした決断力である。

 

 

 


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