僕たちの正体 [丘の上から]
‘個’は、自己中心性の過程である。
これが前提。
僕たちは、身体としての個を一定期間以上存続させるために、免疫性という機能を発達させてきた。
たまに、その働きが過剰に作動して、逆に生体自体を死に到らしめるという本末転倒なこともやってしまう。
例えばスズメバチに刺されて死んでしまうような場合、その多くは、致死量を超えた毒液の作用そのものによってではなく、免疫として働く抗体のアレルギー反応によるショック死だ。
‘とにかく外敵を排除するぞ’という、この愚直なまでの徹底性は、まるで任務遂行に余念のない軍隊のようだ。
一つの生体が同一性を持って継続するために、それに変化をもたらす外部者へのこの執拗なまでの排他性は、我々が生きていくうえでの宿命的な前提の機能と言えるだろう。
この排他性によって支えられる身体と連動して機能している心理(自己イメージ)もまた、排他性に支配されてしまうのは自然なことだ。
ここを踏まえなければ、僕たちの言行は、すぐに無自覚な欺瞞となってしまう。
たとえば民主主義。
これが有益に機能するためには、選挙民にも被選挙民にも、公的な次元の認識(メタセルフ)といういわば‘善性’が求められる。
その善性が‘発現’している人が大多数であれば、多数決を基本とする民主主義は成功するだろう。
残念ながら、そのような前提が、世界のどの国家にも存在していないことは自明である。
つまり、僕たちは、‘無自覚な’自己中心的存在であるままで、民主主義が有益に機能することを望んでいるのだ。
それは、不可能な虚構であり、初歩的な幻想である。
民主主義というシステムがもたらしたのは、この身勝手な幻想に過ぎなかった。
僕たちの行為の根拠が、事実ではなく、幻想に則っていたら、個々人も、また社会も不幸に行き着くだろうことは、容易に推測できる。
前提として自己中心的な存在である僕たちが、公的な次元での有益性を、自己の欲望達成よりも優先させるのは、その方が結果的に、自分個人にとって有益だと認識できた時のみである。
そのために必要なことは、想像力を働かせることだが、僕も含めて大多数の人は、そんなことはしない。
そんなモチベーションは、僕たちの大多数に起きなかったし、今後、少なく見積もっても数千年は起きないだろう。
起こさなければ、半永久的に起きない。
では、起こすシステムはあるだろうか。
自分の行為の結果を自分が引き受けている事実の確かな実感を得ることが期待できるシステム。
これもまた、民主主義である。
但し、その場合の民主主義は、直接民主制でなければならない。
民主主義という思想の真価を本当に問えるのは、国民の総意を確かに反映する直接民主制を実施できた時のみである。
つまり、外交も含めた全ての法案の是非を国民投票で決めるのである。
自分自身の判断の結果を、ほどなくして、自分自身が受けるという事実だけが、結果を引き受ける民主主義国家の市民であるという実感がもたらす。
僕たちがなんとなく、その優位性を信じている民主主義。
先進国は、良かれと思い、これを世界に啓蒙していこうとするのだが、その過程で次々と問題が噴出し、多くの死者が出る昨今。
そろそろ、この民主主義というものの決着をつけても良いのではないだろうか。
実のところ、その正体を、僕たちの誰も知らないのだ。
直接民主性を実施し、それを赤裸々にして初めて、僕たちは本当に意味で、民主主義国家の市民になり、民主主義が生み出すものを見ることができる。
当然、これを実施することは、僕たち国民の一人ひとりに相応の勇気を求められるだろう。
なぜなら、民主主義の真価を問うことは、僕たち自身の真価を問うことだから。
実は、誰もそれを問いたくない。
自分が自己中心的な存在に過ぎないことを、深いレベルで知っているから。
果実は欲しいが、責任は負いたくない自己中心的な存在で、ずっといたいから。
僕たちは、僕たちの正体を見たくない。
だから、民主主義をいびつなものにして継続してきたのかもしれない。
僕たちは今、見ることでしか変わらないことに対する選択を迫られているのかもしれない。
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