落ちた切符 [見て取られた自己]
随分と早くから、僕は、自分が自由であることを望み、常に意識してきた。
漠然と ‘ 自由 ’ と言っても、人が聞いたら、雲を掴むような言葉だ。
少なくとも、僕のそれは、政治的自由ではない。
たまたま、日本という平和な先進国に生まれたからだろう。
おそらく、僕が求めてきた自由は、何でもいいが、ある行為をする際、葛藤、わだかまりといった心理的苦痛がないということだ。
‘ 心理的苦痛がない ’(?!)
その状態は、どんな時に起きるのか。
‘ 恐怖 ’ がない時だと、経験的に、僕は思う。
結局、僕の場合、自分の行為は、そのほとんどが、恐怖を何らかの根拠にしているのだ。
このあいだ地下鉄に乗っていた時、僕が座っていた正面の長シートに座っていた人が、うとうとしていて、するりと、彼の切符が床に落ちたのを見た。
僕は、わずかに「あっ」という表情になった。
僕の葛藤がスタートした。
僕の左隣には、女子高校生2人。
スマホに夢中の様子だ。
彼女らのどちらかが気づいていたかもしれない。
彼女らが声をかければいいのに、と思った。
何も起きない。
気づいているのは、僕だけかもしれない。
僕は、そこから2つめの駅で降りるまで、
遂に、声をかけられなかった。
声をかけるのが、カッコ悪いと感じたのだ。
落ちた切符は、その男のではなくて、もともとシートに忘れられていたものかもしれない。
怪訝な顔をされるだけかもしれない。
僕は、自己正当化の理由を探していた。
十中八九、事実は、彼が切符を無意識に落としたに過ぎないということ。
自称、自由を人一倍求めているというこの男(僕)は、人一倍、他人の目を気にしていた。
切符を床に落としたことに気がつかないまま、あの男が、改札出口前まで来て切符を捜す光景を想像した。
良心の呵責。
「いるよ、そんな人間。よくある話だ。」「どうでもいいよ、そんなしょぼい話。」
と言われるようなことかもしれない。
だが、僕の場合、この時、その良心の呵責の質に注目せざるをえない。
いわゆる良心の呵責という言葉に、僕のこの時の感情はそぐわないからだ。
僕が、あの男に声をかけなかったこと、
つまり、助けられる人の不幸を見過ごしにしたことへの思いは、
良心の呵責ではなく、恐怖から来るものでしかない。
自分の(不作為という)行為への報いへの恐怖である。
仮に、僕が、あの時、彼に声をかけていたとしても、
それは、自分の良心から来るものでも、
他人への思いやりから来るものでもない。
自分が、いつかの将来、その報いが何倍にもなって返ってくることへの恐怖からでしかない。
それは、特定の宗教を盲信して、その教義に精神が全く支配されている人に似ている。
手を何度も洗わないと、不安が無限に増大していく神経症患者に似ている。
僕は、先日話題になった、踏切で、自分の生命と引き替えに老人を助けた女性のニュースを思い出した。
そして、アニメの『フランダースの犬』の最終回のように、命絶えた彼女を天使が天国に連れていく光景を想像した。
仮に、僕が、彼女と同じ行為をしたとしても(そんな勇気は全くないが)、僕のところへ天使は来ないはずだ。
僕がそのような老人を助けるとしたら、僕は、「もしその老人を見殺しにしたら、僕はどんな重い罪を背負い、どんな想像を絶するような報いを受けるのだろうか。」という恐怖から、
そうするのだから。
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