自発性を探せ!⑨ ─心の実相─ [俯瞰日記]
日曜日。起きたら、午後3時過ぎだった。
一日が早く終わるパターンだ。
そういえば、ここひと月くらい、まともに人と口を利いていない。
どんなノリで話していたか、勘が薄らぎつつある。
寂しさはある。
が、人恋しさというよりは、もっと、こう、根源的な寂しさだ。誰か話し相手がいたら、おそらく確実に気が晴れるだろうが、それはテレビでバラエティを見るのと変わりない。気晴らしの最中もそのあとも、この寂しさは根底に横たわり続けるだろう。部屋に、哺乳類仲間が欲しいところだ。‘にゃんこ’とか。
猫といえば、昔よく、猫の鼻をつまんで遊んでいた。
人間の場合、鼻をつままれたら、鼻の穴が塞がれて呼吸できなくなると理性で知っているので、口で息をするか、つまんだ手をすぐに離そうとする。
が、猫は、そのことを知らないので、しばらくじっとしている。やがて胸が苦しくなり、そこで初めて、鼻をつままれたこととその苦しさという結果に因果関係があることを悟る。そのタイムラグが可笑しかった。
猫にとってかなり迷惑な遊びだ。
この遊びから改めて分かることがある。
猫は、不安(未来のイメージ)が行動を促すということがないという事実だ。
これに対して、人間の場合は、常に心理的不安が行為に影響を与えている。そして、さらに言えば、予め、未来に起き得る不幸の可能性、不安の材料を敢えて探している。もちろん、その目的は未来の幸福だ。思わぬ不幸に遭わないために、不安材料を現在の観念に置こうとする。だが、不安というのは、事実として心理的苦痛(不幸)をもたらす。つまり、未来の安泰のために現在を不幸にしているのだ。実際に、僕たちが生きているのは、常に現在のみだというのに。
未来の幸福を望み、そのために、現在に不幸を抱え続ける。
矛盾だ。
だが、無理もない。
先に言った‘思わぬ不幸に遭わないために’というところがポイントだ。この思わぬ不幸が、僕たちに相当大きなショックをもたらすのだ。不安を敢えて抱えようとする衝動は、これのトラウマの堆積によるものなのだろう。
ここを何とかしなければ、僕たちは、永遠に、現在の幸福を得ることはできない。
不本意な今がある。
変えたいと素朴に願う。
では、何が、変えるのか。
これまで、僕はそのことをよく考えた。
成功者と言われる人を見てみると、そのための日々の努力が続いた要因は、目的への執着力のように思える。おそらく、それによる意志が、怠惰さに勝ったのだろう。
《人のことはいい。おまえはどうなのだ。》
残念ながら、流れに呑まれている日々が続いているとしか言いようがない。
只、必ずしも一般的な意味での成功者になることを、僕は望んではいない。
《説得力のない、言うも無意味な負け惜しみにしか聞こえない。》
その通り。成功者(自分の価値が客観的に認知され、地位を得、財を成した者)になることで、僕が真に望むことが得られないことは確かだろうが、成功者への憧れは、現にあるのだから。
今日、僕は、何をしたのだろう。
いや、そんな優等生的な問いは、僕には無力だ。
では、すべきことがあったのだとしたら、何をしなかったのだろう。
きっと、瞬間瞬間に小さなすべきことがあり、それを見ることからの逃避の集積が、怠惰な時間なのだろう。僕は、たとえすべき小さなことをしなかったとしても、しないことを選択した主体の目撃者になるべきだったのだ。
もちろん、根本の目的は、自発性を自分の存在の中に見出すためにどうすべきか考え、これを為すことなのだが、そこは、行為という最も重要なレベルで、事実として、ほぼ完全に忘却していた。
可能なところから始めなければいけない。
とにかく、できるだけ生活の中の小さな瞬間瞬間の各行為に対して、そこに働く意思を自覚するようにしてみよう。
生(生きること)そのものと乖離した思考、そして、意思と共にない行為。それが、今の僕の生活の現実だ。
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