自発性を探せ!⑩ ─諦めと専心─ [俯瞰日記]
‘生活の中の小さな瞬間瞬間の各行為に対して、そこに働く意思を自覚するようにしてみよう’か(「自発性~ ⑨」)。ずいぶんと抽象的な課題だ。難しいことであることは先刻承知ではあったが。毎朝8時に起きるとかだったら分かりやすいが、この課題は客観的な達成基準がない。強いて言えば、心が納得するという実感の事実だろう。現実の具体性から離れ過ぎていることは否めない。
行為は、常に一般的だ。だから敢えて、そこの次元で考えてみよう。
目的を持ち、そのための努力をし、段階的にその成果を得る。その繰り返しの中にある充実感が、その人の幸福感となる。書いてみればシンプルである。要求される資質もまたシンプル。勤勉さだ。本来、怠惰に流れやすい人間にとって、厳しいと言えば厳しい要求だが、着手できない説得力のある理由を見出すことは、余程のハンディを持っている人でない限り、誰にもできない。
それができるできないは、自己責任でしかないことを受け入れざるを得ない。このことに直面したら、人間は、実際のところ、平等なのかもしれないと思える。
さて、昨日掲げた挑戦は、必ずしも、全面的に空しいものではなかったと思う。
それにより、今日、自分自身に発見したことがある。
僕の基本行動を規定していたのは、‘時間を支配したい’という願望だったということだ。
まさに、これから起こす(小さな)行動の発想が生じた時、僕には、ほぼ必ずブレーキがかかるという反射的癖がある。思慮深いという評価もできるし、単なる面倒くさがりという理解もあるだろう。
しかし本質は、時間を支配したいという願望だった。
いざ行動を起こす際、僕は、この行動を今このタイミングですることが本当に適切なのか、あるいは効率的なのか、と考えるのである。
僕の頭の中の基礎イメージに一定の時間幅のようなものがあり、その中に効率的に各行為を置こうとする癖である。
例えば、僕は、テレビ番組をリアルタイムで見ることを基本的に避けている。それは、その特定の番組の時間帯にできる行為の選択肢が一つになってしまい、より価値を持つであろう他の行為を行う可能性が失われることを恐れるからである。
本を読んでいても、シャワーを浴びていても、歯を磨いていても、その行為と共にいない自分がいる。まぁ、誰でも日々の慣例的な行為の際は、何か他のことを考えているものであろうが、僕の場合は、それだけではなく、‘やっているその行為自体に対しての据わりの悪さ’が常にあるのだ。
よって、結果的に全ての行為がそれに専心されていないので、不完全なものになる。欲張り過ぎて、全てを失っているのである。
そういえば、ちょっと前に缶コーヒーのテレビCMで流れていた昔の歌謡曲の歌詞に引っかかったことがあった。
‘お~とこだった~ら~、ひとつに賭ける~’
それに賭けなければ、それ自体を失う。
以前、‘今日を諦められない自分’について書いた(「自発性~ ②」)。
今回の場合は、まさに現在進行中の行為の際に、それ以外の行為の選択可能性への諦めがついていないという事実の自覚である。
僕は、時間を支配しようとして、逆に時間の観念に支配されていたのである。
今後、僕は、常に、こう意識しなくてはならない。
‘今のこの行為を愛し、専心するために、他の行為をきっぱり諦めよ’と。
今を失うことは、全てを失うことなのだから。
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