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戦ってみるか ─僕とシャープの100日戦争─ ⅹ [怒りのツボ]

 2日後、果たして、W-ZERO3 Advanced [es](僕が最初に送ったもの)と、WILLCOM 03(貸し出し用)が送られてきた。
 今回、シャープ側は僕にWILLCOM 03の使用を提案してきたわけだが、それは、単純にクレームへの対応手段として、この最新機種を提供しますということではなく、あくまで、‘これの録画機能が、貴方の言うところの最低限の水準に達しているということでしたら、代わりに使って下さい’という意味である。
 よって、もし、このWILLCOM 03も同じ症状を持つものだったら、僕が、これを受け取る理由は失われるということになる。
 さっそく、いつものように、ギターの弾き語りを録ってみた。
 結果、音跳びは──、起きた。
 当たり前と言えば、当たり前である。録画機能の部分は、画面を見る限り、W-ZERO3 Advanced [es]と全く同じソフトであろうから。
 これで、僕がWILLCOM 03を提供してもらう意味は失われた。
 たとえ、この最新機種の新たに加わった機能、さらにコンパクト化されたデザインが、僕にとって魅力的であっても、それを、僕が購入したW-ZERO3 Advanced [es]が欠陥品であったことの代償として捉えることはできない。
 僕は、WILLCOM 03の提供を断り、この欠陥を抱えたW-ZERO3 Advanced [es]を使うことに決めた。なんだかんだ言って、僕は、このW-ZERO3 Advanced [es]のデザインや色が好きなのだ。早く問題を解決してもらって、晴れて本格的に使いたかった。
 問題は解決しなかったが、とにかく、このピーチブロッサム色のW-ZERO3 Advanced [es]を、やっと使えることは、嬉しいことでもあった。
  
 とはいえ、それにしてもあっけない。本当に、シャープの端末の技術自体が、その程度のものなのか。
 僕は、検証用のWILLCOM 03を送り返す前に、念のため、もう1回だけ、確認の実験をしておこうと思った。たった1回の録画実験では、形として、意図した結果を恣意的に導き出したおざなりなものとも取れる。
 僕は、とにかく心から自分を納得させるため、半ば形式をたどるような心情で、録画してみた。
 なんと──、音跳びがない。
 もう1度録った。結果は同じ。全く音が跳ばない。
 どういうことだ。
 これまでの、W-ZERO3 Advanced [es]の実験が間違っていたのか。
 僕は、W-ZERO3 Advanced [es]の方で録ってみた。
 やはり、これまでと同じように音跳びは起きる。何度やっても。
 この時、僕は悟った。
 この‘戦争’は間違っていなかった。
 最初期のW-ZERO3[es]は、音跳びが起きなかった(参:「戦ってみるか ⅲ」)。
 そして、最新機種のWILLCOM 03でも、起きない
 この欠陥は、W-ZERO3 Advanced [es]固有のものだったのだ。
 
 大多数の人は、僕を、タチの悪いクレーマー野郎と見るだろう。
 実際に、コメントで、そのような批判も受けた。
 たとえ不条理な目に遭っても、それに異議を唱えることなく、それを受け入れ、その条件内で幸せを見つけていく。それもいいかもしれない。むしろ、それが日本人全般の心性なのかもしれない。
 だがどうだろう。
 そのあり方は、ともすれば、卑屈な、欺瞞的自己中心主義に導かないだろうか。
 例えば、今年の春、最終判決が出た光市母子殺害事件の被害者遺族である本村氏に対して、「10年も恨みを持って生きるより、早く、妻、子供のことはスパッと忘れて幸せになった方が良かったんじゃな~い? ほら、よく言うじゃん、罪を憎んで人を憎まずってね。」と、善意の微笑みで言えるような、実体のない無責任なメンタリティを生まないだろうか。
 常に、‘理想’は、ここにないものである。そうあるべきという観念が、しばしば、既にあるという幻想を生み、その錯覚に基づいた発言なり行動は、結果的に、根深い実害をもたらす。
 広島、長崎に原爆を落とし一般市民を大量虐殺したアメリカ、その国民の大多数が、誇りを持って、その行為の正義を主張し、一方、恐ろしく立派な聖人君子である我が日本人は、被爆し具体的な実害を被った人たちへの碑文上で、「過ちは 繰返しませぬから」と言う。
 仮想的に自分たちを世界市民の境地に立たせても、心情の実相は、違和感を感じているはずである。その事実を忘れたり無視したりする欺瞞性が、人の実際の行為自体の残虐性を野放しにするのである。
 
 「僕とシャープの100日戦争」には意味があった。
 これなくして、真実は見出されなかった。
 真実とは、W-ZERO3 Advanced [es]が確かに、製品それ自体としての欠陥品であったこと。そして、企業(組織)の一員としての人間は、まっすぐにそういうことと向き合うことはできず、被害者に対して簡単に非情になれるという現実である。
 人間の実態。
 それを確かに見ることから、僕たちは始めるべきである。

 

 
 

 


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