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自発性を探せ! 15 ─ どうだい? 自由とやらは─ [俯瞰日記]

 僕は、自由な生活の中にいた。
 小さな有限会社の社員なので、給料は大したことはないが、具体的な現業はスタッフと呼ばれる登録の専門技能者にまかせ、自分は、彼らの予定と配置を管理するだけである。上司のいない支所に、一応、フレックスで出勤しているが、携帯端末一つあれば、どこにいても仕事はできる。なぜか事務所にはシステムコンポが設置されていて、音楽キーボードも置いてある。もちろん音楽関係の会社ではない。
 好きなことができる時間は十分にある。
 そんな生活を手に入れて間もなくの頃、僕は、賃貸マンションの最上階(といっても11階だが)に引っ越した。そのマンションは、基本的に夫婦または家族向けで、一人者には貸してもらえないきまりがあったのだが、自分と保証人の年収を提示したら、例外的に審査が通った。
 天気が良い日は窓から富士山が見え、池袋のサンシャインビルと新宿の高層ビル群が同時に見えた。
 この窓からの夜景を見た時、僕は今までにない勝利感を感じた。
 僕は、確かに自由だった。
 一部屋を、趣味(音楽作り)専用として使うことにし、レコーディングスタジオのように機材を集めた。
 曲を書き、いろいろなオーディションに出し、複数のネットで公開もした。
 結果、オーディションは全て落ち、既成サイトに載せた作品への反応もパッとしなかった。
 次第に意欲が薄れていった。曲作りの打ち込み作業の途中で必ずと言っていいくらい眠くなる。
 売れた歌手が観客を前に、みんなが応援してくれたからここまで頑張れたと叫んでいる光景を、よく映像で見るが、実感からの言葉なのだろう。元々好きでやっていることではあるのだが、それを喜んで聴いてくれる人たちがいて、尚かつ、そのことが生活の糧になっていく、そういう構造がないと、人は、一定以上、頑張れないものなのかもしれない。
 そんなことを思う一方で、僕は青い夢を見る。
 それが本当に好きなことなら、報酬なしでも、それをすること自体に喜びと満足が得られるはずだと。
 だが事実として、僕の音楽作りは止んだ。
そして、僕は、自由な環境の中、目先の心地好さに流されていった。好きな時に起き、好きな時に寝、昼間でもビールを飲み、好きなものを食べ、好きなテレビやビデオを見て、その間で仕事をしているような感じだ。
 そんな生活をしていると、能動的に何かをしようという意欲が薄れてしまう。とりあえず、目先の現在の快楽を選ぶのである。例えば、宗教的な修行で何年、何十年もかけて幸福感、恍惚感を得ようと志した人が、LSDやマリファナで、インスタントにそれを得てしまう方に行ってしまうようなものである。
 確かに自由で安楽な現在がいつもここにあるようにしているのだが、常に、寂しさと恐怖が、胸の奥に横たわっている。寂しさは、必ずしも人恋しさではなく、もっと根源的な感覚のそれで、恐怖は、ただ時間が流れていくということへの恐怖である。
 窓を全開にして寝ころべば、外には空と鳥だけが見え、自分が空中庭園にいるような気分になれるリビングルームで、僕は思った。
 ‘幸せな部屋だ。只、僕の体を占めている部分を除いては。’と。
 ずっと求めてきた自由の中で、僕が見たのは、そんな現実だった。
 

  

 これを書いている時、偶然、『プロフェショナル 仕事の流儀』というテレビ番組で、小池康博という科学技術系の科学者が紹介されているのを見た。彼は、暮らしを変える数々の新技術を生み出した人なのだが、最初の成功であるプラスチック製光ファイバーの完成までの実験と挫折に要した時間が14年だという。これには驚いた。
 なぜできたのかという問いに、「それが好きだったから。」と彼は答えた。
 それにしても、目的達成という報酬を得るまでの努力の期間が14年とは、どういうことだろう。その過程そのものに没頭していたとしか思えない。本当の意味で‘好き’とは、こういうことなのだろう。
 

 

 

 

 


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