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幸福のギブ・アンド・テイク [見て取られた自己]

 幸福は、与えたぶん、やってくる。
 きっと、そうなんだろう。

 小学生の頃のある日、祖母が家に寄った。祖母は、普段は叔母夫婦の家に住んでいた。
 冬だった。
 僕以外の人間は誰一人、記憶に残らないようなありきたりな時間だった。
 僕は、その時の光景を、薄暗い照度と共に憶えている。
 消してあるテレビ。細長い畳の居間。中央にコタツ。 
 僕は、コタツに仰向けに寝転がって入っていた。祖母は、その正面に座って入っていた。
 僕は、ずっと天井を見て黙っていた。
 夕方、そこへ3つ年上の兄が外から戻ってきた。それをきっかけに、僕は部屋を出た。
 兄は、電灯もつけていない薄暗い部屋の長い沈黙がもたらした、どんよりとした雰囲気を見て、僕に言った。
 「おまえ、話しかけてあげろよ。」
 子供ながらに、僕は、重い非難を浴びたことに気づいた。
 兄は、祖母にも叔母にも、叔母の旦那にも、かわいがられていた。
 僕は、相対的に自分が、かわいがられていなかったから、このようなパーソナリティが生まれたのだと正当化することもできるが、今となっては、それ自体、まるで意味がない。
 とにかく、今に至っている僕の基本的な世界へのスタンスは、その頃決まったのだろう。すなわち、
 
 誰も、今後、こんな僕の幸せに寄与することはないだろう。
 だから僕の幸せは、僕の中で、僕一人で作らなくてはならない。
 
 という、あり方だ。

 あの時、部屋に祖母がいる間は、自分も、そこにいてあげる。
 それが、僕にできる精一杯だった。
 それが、僕だった。
 兄は、自分が持っているような優しさを、僕も持つべきだと思ったのだろう。
 兄に限らす大多数の人は、こんなサービス精神に乏しいクールでドライなポーカーフェイス野郎に苛立ちを覚える。
 僕は、その時、子供ながらに、想像以上に傷ついたのかもしれない。
 僕は、今、あらゆる人に対して、その人がその人であることを望むのは、だからなのかもしれない。
 誰もが、ちょっとした‘当然こうあるべき’を無意識に演じ合っているように、僕には見える。そして、それを外した奴を見ると、途端に苛立つのだ。
 僕は、そんな前提が強いる優しさを信じていない。

 幸福は、与えたぶん、やってくる。

 たぶん、そうなんだろう。
 只、僕は、そんなふうに、ギブ・アンド・テイクを前提にした瞬間、その行為は嘘になるように感じる。
 人に幸福を与えたい時、どういうわけか喜ばせたいと思った時、そうすればいいだけのこと。
 僕は、理想として、それを実践したくない。
 僕が僕であることで、あなたが苛立つなら、あなたの前に現れないようにするし、できるだけ、孤独でいましょう。
 僕は、その人がその人である光景を見ているのが、只好きなだけなのだ。

 

 

 


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