愛のゲーム [怒りのツボ]
人混みを眺めていると、以前観た映画「リトル・ブッダ」のワンシーンでチベットの仏教僧が語っていた言葉を思い出す。
「あそこを行き交う人たちの内、100年後に生きている人は一人もいません。それが無常というものです。」
その度に、柄にもなく、それぞれの表情で歩く人への憐れみの念が生じる。
そんな一方で、人混みを歩いている時、ふと、凶悪犯罪者の心境への共感が生じてくることがある。
‘僕は、これだけ不幸なんだ。だから、それをもたらした社会に復讐する権利、いや、もっと言えば、義務が、僕にはある。’といった感覚だ。
それが、論理的に無根拠であることは分かっている。
その時、僕は、目の前を行き交う人たち、今日これから会う人たちの全てに嫌悪と苛立ちを感じている。
凶悪犯罪者の心理を連想するくらいだから、それは、被害妄想的な心性なのだろう。
怒りも嫌悪も、結局、防衛本能に根ざしていて、自分への実害への可能性への恐怖から始まっているのかもしれない。
本当に怖いのは、無自覚に人を傷つける者である。10人殺しても無自覚、100人殺しても無自覚。悪気がないから際限がない。
それに比べれば、はっきりと一人の人間を自覚的に恨み、復讐を遂げる人の方が全く誠実である。
そんなわけで、僕の怒り、苛立ちの原因となるものの多くは、能天気な欺瞞に対する嫌悪感ということになる。
例えば、‘人を非難することそれ自体の快感’に、無自覚に支配されている新聞記者やテレビのコメンテーター。彼らの大好物は、政治家の失言、スキャンダル、悲惨な事件等々である。
その浅薄な正義感覚は、「ビューティーコロシアム」にゲストで出てコメントするグラビアアイドルレベルである。「親からせっかくもらった顔にメスを入れるなんて、私には考えられないし、人としてどうなのかなって思います。」
本当に罪深いのは、こういった自分自身の現行為、思考を決して対象化できない幼児的欺瞞であると思う。
ステレオタイプ、あるいは機械反応的な正論の語りが、いかに残酷に働くか、また絶望をもたらすか、そして結果的に社会的害悪をもたらすかを、誰かが伝えなければならない。
あの行き交う人たちの大多数は、グラビアアイドル的良識人、つまり能天気な欺瞞と共に生き続ける人たちである。
自己に、また他者に、欺瞞を欺瞞として感じられる感性を持った人は、「僕たちは、快感を求めるあまり、それによってもたらされる個人への、また社会への実害に対して無意識に頬かむりしているのだ。」と、堂々と言い続けなければならない。
それは、正義を語る偽善者たちが、平和を語る偽善者たちが、僕たちトリックスターにもたらした「愛の遊戯(ゲーム)」なのかもしれない。
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