逆人見知り [見て取られた自己]
人見知りという言葉がある。
一般に、初対面の時に、不安や恥ずかしさで、言葉少なになるようなことを指す。
とはいえ、特に人見知りでなくても、最初から明け透けに自分のことをバンバンしゃべったり、相手のことをどんどん聞いていく人は、そうはいないだろう。
通常は、会う回数、話す回数を重ねて初めて、だんだん気楽にしゃべれるようになる。
そういう意味では、誰もが、多かれ少なかれ人見知りであるとも言える。
だが、僕の場合、奇妙なことに、会う回数に比例して、緊張度が増すのである。だから、気楽さという意味では、だんだん、その人との距離が離れていくという感覚である。
つまり、‘逆人見知り’である。
あとで思えば、その人といちばん親しく雄弁に話せたのは、初対面の時だったということになるのである。
僕は、自嘲気味に自分にツッコミを入れている。まるで、膨張する宇宙論みたいだな。
それにしても、僕のこの、会えば会うほど、逆に不安になり恥ずかしくなるというのは、いったい何なのだろう。
いまだに、顔が赤くなる。我ながら奇跡だ。
初対面の人には、僕のことが、やや横柄に映るようだ。
上の理由で、仲良くしていこうという未来が意識されていないからだろう。
どう思われても良い。
三日経てば、僕の心は、よそよそしくなるのだ。
あるいは、親しさの感情の寿命が、人より短いのかもしれない。
三日くらい経って、偶然会った時の相手とのテンションの差が申し訳ないとも思う。
初対面のあとの深まりもいいが、30分も話せば、その人の本質は分かる。
錯覚かもしれないが、そんな感じがする。
ある時、会ったばかりの相手に、こう言って呆気に取られたことがある。
「なんだい、君らしくもない。」
最近は、タレントの自己紹介欄に、必ず血液型が入る。それによって、性格の基本のところが分かるとされているからだ(たぶん、日本と韓国だけだが)。
そういう意味では、初対面の人に必ず聞くべきは、血液型かもしれない。
でも、僕がそれを聞くとしたら、相手の基本的な性格を知るためではない。
単純に、そういう類のものを信じている人かどうかを知るためだ。
血液型性格類型といったものを素朴に信じている人たちは、目の前の‘その’人間と本当に出会うという可能性が、既に閉ざされている。
本当の意味で出会うということは、脳が、その働きの特性によって、ついつい持ってしまう幻想を超えていく過程で深められるからだ。
そんな初歩的な幻想でつまずいている人に、話すに値するオリジナルな思考は起きることは、経験上、まずない。
とはいっても、その時点で、僕の話し相手の90パーセント以上が失われるということではない。
そういう幻想にまみれて、機械反応的に生きている人間が、決して無価値だとは思わないからだ。
人間の価値は、必ずしも自覚的な知性の面だけではない。
どんな人間も、トータルとしては、知恵を備えた‘存在’だと、僕は思っている。
その、存在レベルでの価値を見ていれば、誰もが尊く、一人ひとりが示唆を与えてくれる愛らしい存在である。
「初めまして。あの~、血液型は何ですか?」
まぁ、でも、やっぱり、僕は、そんなこと、初対面の人に必ず聞こうとは思わないな。
僕は、その時、相手と確かに出会っているから。
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