僕たちの悲しみ [見て取られた自己]
常に、寂しさが、心のベースにたゆたっている。
この寂しさをごまかす方法は、いくらでもある。
それを忘れさせてくれる人なら、僕は、誰でも愛せるだろう。
でも、この寂しさは、誰かが美しい意図を持って癒せる寂しさではない。
♪ きっと ほんとの 悲しみなんて
自分ひとりで 癒すものさ
「マイ・レボリューション」(渡辺美里)
大層な物言いで語ってみたが、僕の望みは、こんなメジャーなヒット曲に歌われるほど、ありきたりなものなのだ。
ちょっと、笑えるね。
根本的な悲しみは、実は、ありきたりなのかもしれない。
勝手に、深く沈みこんで、そこに、どこか優越感を感じている奴なんて、ごまんといる。
曰く。「俺の悲しみなんて、誰にも分からないさ。」
それぞれの悲しみに、相対的な程度の差があるだけ。誰もが、必ず、遠く上と遠く下の幅の中のどこかにいるに過ぎない。
もし、‘僕の’悲しみではなく、遠く上から遠く下まで、その全てに繋がっている、悲しみというもの自体を理解できたら、
僕は、‘僕の悲しみ’から解放されるのだろう。
僕が、僕の心が、繰り返し「寂しい」と語り出すのは、僕の心が苦しんでいる事実そのものが悲しいと感じているからだ。
誰もが幸せを掴もうとするが、それを掴むことで、その幸せがないことの不幸をも掴むことになる。
憂さ晴らしは、人の心の表層を元気にするけど、同時に僕たちは、その時、自分の深層に悲しみを排除しているのだ。
そんな堆積された悲しみを、何が、実際に癒すのだろう。
失恋の悲しみを癒すのは、元気な曲ではなく、悲しい曲であることを、多くの人が経験則として知っている。
悲しみが、悲しみを癒す?
おそらく、その時、悲しい曲から、僕たちは単純な真実としての悲しみを聴いていて、その真実が悲しみを癒すのだろう。
正義そのものには力がないが、真実には、不思議な力がある。
正義には、それを実現する味方(正義の味方)がいるが、真実は、それ自体に働きがある。
だから、僕は、僕の悲しみにではなく、悲しみそのものに迫りたい。
きっと、悲しみは、僕たちの心に、世界に、普遍的に存在し、その悲しみが、僕の悲しみを癒してくれるはずだ。
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