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意味のベクトル ②-2 [僕の こじつけシンクロニシティ物語]

 だが、このご利益が得られない人間もいる。
 社会から認知が得られないという意味でではない。
 認知は得られ、必要な収入も得られ、つまり、社会システムには十分に適合しているのだが、それによって心理的安定感というご利益が得られない人間のことである。
 
 社会システムへの適合は、それなりの努力とエネルギーが要るのに、気持ちの充実感といった返りが、彼には来ない。
 循環がなければ、必然的に、只、疲弊していくばかりということになる。
  
 だから、彼は、サブ世界ではなく、‘世界’に向かわざるを得ないのである。
 彼は、‘秩序’に則り、それと共にあることで、安定感としての幸福があるということに全く異論はないのだが、その秩序は、必ずしも社会秩序ではないと感じるのである。
 
 世界そのものの秩序に触れたい。
 彼は、そう望むのである。
 その秩序を知り、それに則ることが、彼にとっては、生きることなのである。
 
 何を根拠に、
 彼は、そこに希望を見るのだろう。
 一瞥である。
 
 たぶん、彼は、‘世界’を、一瞥したのだ。
 そこには、より上を目指し、社会的評価を高めることで得る幸福とは別の幸福がありそうだった。
 そして、その瞬間、彼は、戻れなくなった。
 サブ社会への適合、それによって得られる幸福に希望を見るという在り方に。
 
 社会からの期待、義務というベクトルを感じ、それに応えることで、承認が得られ、豊かな生活が得られる。
 だが彼は、そんなベクトルではなく、もっと微妙で、精妙なベクトル、世界そのものが放っている‘意味のベクトル’を見出したいのだ。
 
 都会を出て、大自然を感じよう、などということでは、もちろんない。
 サブ世界も、世界から独立して存在しているのではなく、世界の一部である。
 どこにいても、意味のベクトルは、常に放たれているはずである。

 

 

 

 

 


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