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4.良心 [『無敵になりたい』]

 確か、小学校の高学年の頃だった。
 アスファルトの県道沿いに、水をはけさせるための深さ50センチ程の側溝があった。
 その中に浅く水が溜まっていて、水の底に沈殿した泥に紙片らしきものが挟まるように落ちていた。
 その時たまたまいっしょにいた近所の遊び仲間が、それを見つけた。
 僕が拾い上げたら、それは千円札だった。
 その瞬間、それを自分たちのお金として使うことは、既に僕にとって当然のことだった。
 何の躊躇も迷いもなかった。
 一方、見つけた友だちは、使うのに抵抗や迷いを感じていた。
 彼は「どうする?」と聞いてきた。
 どうするもこうするもあるか。
 この意識の違いが、僕を彼の分け前の比率を決めた。
 8:2。
 僕は、手にしたお金で、すぐにプラモデルを買った。
 何の躊躇も迷いもなかった。
 ある意味、‘自由’だった。
 200円の友だちが、それをどうしたのかは覚えていない。
 
 多くの年つきが流れた。
 今、僕は、駅の券売機の釣り銭口に誰かが忘れていった10円玉ですら使えない。
 使ってしまったら、他人のお金を使ったというその行為への‘報復’があるといった強迫観念があるからだ。
 あの‘千円札拾得事件’のあと、大人に育つまでの多感で何でも信じやすい期間に、たぶん僕には、因果応報、あるいは悪因悪果といった観念が擦り込まれたのだ。
 行為や心理に実際的な影響を及ぼす、合理的な根拠のない観念。
 まさに脅迫観念だ。
 
 他人のお金は使わないというこの僕の在り方。これは、少なくとも、純粋な良心によるものではない。
 そもそも、‘純粋な良心’というものが、生後に受けたあらゆる意味での教育効果から独立して存在しているのかどうか、少なくとも僕には確認できていない。
 仮に、それが人間に備わっているものであるとしても、僕の在り方は、それによるものではない。
 因果応報。悪因悪果。
 僕のあり方は、行為の復讐現象を恐れてのこと。
 
 待てよ、と僕は考える。
 全てが、そうなのではないのか。
 僕の行為の何もかもが、良心に基づくものではなく、恐怖に基づくものではないのか。
 だったら、まるで、奴隷だ。
 奴隷でしかない。
 あらゆる行為の根拠が、少なくとも純粋な自由意志でない。
 その根底に恐怖があるのなら、あらゆる行為が、(心理的)自由に基づくものではない。
 自由のない僕が、本当の良心を見出すことができるだろうか。
 教育効果として構築されたものではない良心を。
 心理的な奴隷、つまり、損をすること、悪い結果を受けることを、姑息に保険をかけるように避けようというする精神には、きっとそれは見出せないだろう。
 奴隷である僕に、自由はない。
 
 皮肉にも、その自由は、あの千円札を使った時にあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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