適役だね! 北川景子。 [いつまでたっても テレビっ子]
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先週土曜に放送された『悪夢ちゃん』3話を、アーカイブで見た。
ちょっとしたシンクロニシティを感じた。
僕が少し前に綴ったブログの内容に、本質的なところで重なっていたからだ。
キィワードは、「日常」、「透明」、「空気」。
主人公の小学校教師、武戸井彩未(北川景子)は、環境的に厳しい状況の中で育った過程で、自分の心の奥深くを見ることを余儀なくされてきた。
漠然とだが自己イメージが、ある程度確立していて、自我がまがいなりにも安定している大多数の人間に対して、その自己イメージというものが幻想に過ぎないことを知っている彼女は、そのゆえに、謎のブロガーによって、サイコパスというレッテルを貼られてしまう。
誰もが一皮剥けばサイコパスなのだが、サイコパスとしての汚名を受けるのは、それを自覚した者のみであるという皮肉な現実が、ここにある。
だが、つつがなく保たれているこのかけがえのない日常は、大多数のサイコパスがそれに無自覚という事実に支えられているのだ。
この3話の終了間際で、武戸井先生は、自分がサイコパスであることをカミングアウトし、その直後、人間は、本来そういう存在であるということを、無辜の(?!)生徒たちに投げかける。
さて、どうなるか、というところで「つづく」だ。
本当の自分とか自分探しという言葉が、さかんに使われ出して、けっこう久しい年月が過ぎた。
大多数の無自覚なサイコパス(普通の悩み多き人間)は、本当の自分、本来の自分が、どこかにあり、それに辿り着いたら、自分は満たされ、幸せになれるという希望を持って生きており、その過程自体が、彼らの自我を安定させていると言えるだろう。
そういう人たちに、だが、その希望は幻想に過ぎないということを突きつけたら、どうなるのだろうか。
答えは、どうもならない。
相変わらず、その大多数の愛すべき人たちは、そう訴える人をサイコパスとして、人間の例外者として封じ込め、やはりこれまでの希望としての幻想を土台として、日常を生きる。
ドラマでは、どう展開させるのか楽しみだが、実際の現実は、そうである。
僕は、それでいいと思う。
ある意味、途方もなくエゴイスティックかもしれないが、僕にとって、このつつがない日常は大事だ。
いみじくも、そんな僕と同じ心情を、武戸井先生は、この回の半ばで語っている。
社会的成功に野心を燃やす、大学の研究助手、志岐貴(GACKT)に対して、
「私は、人生の成功には興味がないの。この現実で、私が生きられれば、それでいいのよ。」と。
おもしろい共時性だ。
そんな主人公の武戸井先生が、前回の2話では、全く意図せず、一人の生徒を助け、その生徒の未来に本当の希望をもたらした。
これは、やはり僕がブログで語った ‘ 真実自体がもたらす癒しと助け ’ に通じるものがある。
10月いっぱいで会社を辞めた僕に、また昔のように、シンクロニシティが作動し始めたのかもしれない。
それにしても、北川景子のややサディスティックな顔。古藤結衣子(予知夢を見る子ども、木村真那月役)の大人の弱さや愚かさを見透かしたような目。
まったく、役にピッタリだ。
そして、どちらもかわいい。
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