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自発性を探せ!③ ─非努力─ [俯瞰日記]

土曜の夜から日曜の夜まで、昼夜の区別を超越して、寝たり起きたりしていた。

最近は、缶ビールを2本飲むと、すぐに眠くなる。土曜の夜にビールといっしょに食べたものとの相性が良くなかったのか、日曜は、朝から二日酔いのように頭が痛く、一日中、うとうとした感じだった。

土曜の午前中に慣れた現場で作業をしたので、また翌週の火曜を代休にしよう。いい手だ。

あぁ、それにしても、世間的に、無条件に良いこととされる‘努力’とは、何だろう。

僕は、基本的に、それは‘不自然’な行為だと思っている。

例えば、いい年になってまだ独身でいる。だから、努力して結婚するみたいな。

かわいい女の子には、たいてい恋人がいる。

きれいな女性は、たいてい結婚している。

だから俺は独りなんだ、と言っているのではない。たとえば、あるきれいな女性が、結婚をしないという信念を持っていたとしよう。男が言い寄ってくる。なかなかいい男だ。きらいじゃない。つきあう。そして、結婚を断る。また、ほどなく次の男と出会い、見つめ合い、恋に陥る。‘自然’が成り行きだ。そして、また、この女は、信念に基づいて、求婚を断る。そんなことを繰り返す内、女も疲れる。断ること自体に、結構エネルギーが使われるからだ。女は、それなら結婚したほうが楽だと思う。そして、可もなく不可もない結婚生活に入り、悪くない日々を送る。

よくあることだ。ここで、女が断り続けたとしたら、それが、努力だ。

そういう意味で、僕は、今、例に挙げた普通の女のように、努力をしない。信念に基づいて無理しない。‘自然’を大事にする。それだけのことだ。

結果は逆だが、同じことをしている。

明日は月曜。

どうすべ。

心臓の鼓動が、耳に、ザシザシと響く。

やはり葛藤を持ったまま、行為したくない。だが、そのことがもたらすのは、ほとんど、停滞だ。

世界は、どうなっているのだ。

僕にとって、この世界は何なのだ。

僕が発見しなければ、どんな良い結果もガラクタだ。どんな富も、どんな愛情も無意味だ。

いかなる信念も、正論も、幸福論も、僕とは、関係ない。ん?

「でも、そんなの関係ねぇ。ぁそんなの関係ねぇ。ぁそんなの関係ねぇ。」か。

いいねぇ。あのクレイジーな悲壮感が。

同感だ。

 
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自発性を探せ!④ ─民主主義と僕─ [俯瞰日記]

朝10時過ぎに、自宅のPCで、今週のシフト予定表を本部に送る。ここから業務開始として、もう一眠りする。12時過ぎ、TVの『いいとも』の騒がしさで目を覚まし、会社へ行く支度をする。このところのお決まりパターンだ。

 

 

会社に着いたのは15:00。昨日の夜は、小さな缶ビール1本だけだったせいか、少し体調がいい。現場に夕方から入って‘研修’を受けるか。物理的には不可能ではない。

だが、やはり気が進まない。

気が進まない。これが、無意味な停滞をもたらし、やがて時間切れになる理由の全てだ。

僕は、たぶん、反社会的な人間なのだろう。

社会から恩恵を受けている。それなしに、僕の生活は成り立たない。なのに、恩義を感じていないのだ。

社会と言えば、女子高生の間で、今KY(=空気が読めない)という言葉が流行っているという。

こないだ爆笑問題の太田が番組内で、それに対して、「人がどう思うのか、そんなに気になるのか!」と、彼独特の声の唸らせ方で述べていた。

何のことはない。空気を読む=社会性も持つ。これだけのことだ。社会内で生きている以上、個々が持つべき必要なアイテム。大昔からのことだ。いつの時代でも、これを無視する者が一定数を超えたら、程なく社会は崩壊する。個々の人権、人格、個性、自由の尊重を小学生のガキ共に適用したら、途端に学級が崩壊したように。

渋谷の女子高生たちは、野放しにされて個々の自由を満喫、謳歌できたかというと、そうではなかった。小さな仲間という社会集団を形成した時、全体の無秩序をもたらす者は、やはり彼女らにとっても実感として不快だったのだろう。そういう意味では、KYという言葉を作り、社会性の必要性を彼女らが重んじたことは、自然発生的であるだけに、実のあることだと言えるのかもしれない。

道徳。その価値の多くは、社会を無事に維持するための実効性にある。

そこに、思弁的に理想や、正義の概念を潜り込ませることで、話はおかしくなる。

多くの人は、道徳の基盤となる根拠を‘人間性’と呼ぶ。だが、それらの人たちのほとんどは、その人間性とやらの根源を見てはいない。見たことも感じたこともない幻想上の理想を、目に星を光らせ悦に入る快感のために信じているだけだ。

そういえば、民主主義を至上のシステムとして盲目的に信じている人たちも、そんな類の人たちなのだろう。彼らは、このシステム自体が、社会の未来の安泰な秩序維持を担保すると、何となく思っているのではないか。

結果的には、毛沢東の文化大革命が正しかったんじゃないかと思わせる日が、あるいは来るかもしれない。

そんな日が来ても、「僕たちで決めたことだから、何の不満も悲しみもないよ。」と、笑って最後の日が迎えられる。民主主義を信奉するとはそういうことだ。

僕が、もし民主主義教の教祖に就任したら、国民たちを、こう説得するだろう。

「民主主義とは、貴方たち大多数の深層の共通の‘人間性’が未来を選択するというやり方です。我々の深いところにある‘人間性’には確かな知恵があり、決して誤ることがないのです。」。

つまり宗教なのだ、結局。根本のところは、‘願いで信じる’というものだ。

願いと言えば、聞こえはいいが、結局、自分たち人間集団を無事に維持したいという欲望に過ぎない。

自然は、もとより、欲望とは関係のない次元で秩序を持っている。

人間社会に形成されてきた秩序は、元々、それとの調和と個々の自然な感受性から生まれた側面を持っていたのであろうが、それがシステム化されたら、形骸化が起き、やがて実感を伴わない形式になる。そのため、意味を持って生まれてきた‘常識’も、それが根無し草になることで、人の自然な振る舞いを後押ししなくなった。

後押しを失った家庭は子供に社会性を育めず、社会化機関としての学校も無秩序化しつつある。

そんな中、安倍首相の正義感は、社会にそっぽを向かれている。彼の正義感は、『美しい国へ』に、よく表れている。要するに、真の政治家は、自分につばを吐いたり、自分を誤解して憎む人をもひっくるめて、結果として全体を助けるというものだ。

事態は、「これでもか。」と言わんばかりに、安部首相にとって不運とも取れる困難を次々ともたらしている。これが民主主義だ。

対して、「国民はよく見ている。よく分かっている。」と主張する民主党の議員に、自己欺瞞感はないのだろうか。テロ特措法がどうしたこうしたと言っても、事実として、日本国民の半数は、集団的自衛権の意味自体を知らない。これが民主主義だ。

実は、関係ない。制度も、運動も、動向も。基本的に、僕のあり方と関係ない。

自分自身を知らない限り、全ては無意味であるから。

人間性──。 僕は、この言葉の正体を、あらゆる偏見と幻想を超えて、自分自身の中に見出すまでは、決して使いたくない。ましてや、自分の見解の根拠に置くなど、もってのほかだ。

「人間性の大切さ。そんな簡単なこともわからないの~? かわいそうなひと~。」と言う人たちが無自覚に信じる‘宗教’のことを、僕は肯定も否定もしない。

只、単純に、僕はその宗教の信者ではない。それだけのことだ。


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自発性を探せ!⑤ ─問いかけとしての行為─ [俯瞰日記]

 代休日。

 それにしても、ストーリーが起きない日々が続く。

 今日は、比較的早起きして(と言っても10:30)、買った女と小一時間ホテルで過ごした。本番はできなかった。まぁ、だめモトの結果だ。そういう契約なのだから。

 インリン・オブ・ジョイトイに似ていた。そのことを言ったら、「すごく言われる。でも、M字開脚はできないよ。」と言って、彼女はホテルのドアの向こうに消えた。

 そんなことで街に出掛けたついでで、電源の入らなくなったアイロンをビックカメラの修理窓口に持ち込んだ。図らずも、新品と交換してくれた。喜ぶべきところだが、大して嬉しくない。

 部屋に帰ってから、貸し出し期限オーバーの本を図書館に返し、洗濯を2回しただけで裾上げ部分がほつれたスラックスを、買ったデパートの店に持っていった。やり直してくれるという。

 僕にしては、なかなか充実した休みの使い方だったかもしれない。充実感はないが。

 やはり気になることは、現場作業の研修に行っていないこと。前回行ってから、まもなくひと月が経つ。

 やれやれ。懸念がだらだらと続いている。

 変化を持たすために、実家にでも帰るか。新幹線使って片道5、6時間。微妙な距離だ。そこそこの決心がいる。

 そうだ。何かにつけ、今、僕には決断力がないのだ。決断にもエネルギーが必要だと実感する。

 能動的に一つの行為を選択しているのではなく、面倒くさくて何もしないということで、結果的に、不作為を選択した形になっている。

 あぁ、何が起きているのだ、僕の人生に。

 

自分の意思で為す行為は、‘世界’への問い掛けとも言える。その行為が意識的なら、対する結果を、答えとして気づくことができる。つまり世界と、コール・アンド・レスポンスで繋がれるというわけだ。

そういう意味では、僕の今には、因果関係がはっきり認識できる行為がないと言えるだろう。

何もしないことの恐怖。何の進歩も成就もなく、只、時間が過ぎていくことの恐怖。

だが、特に何もしていなくても、生きていることそれ自体、何かしらの行為と一体である。時間と運動が一体不可分であるように。

この常に横たわる恐怖は、たぶん僕が、行為に優劣をつけたところから始まっているのだろう。いわゆる実績が見える状態をもたらす行為に価値があり、そんな行為がない状態が続けば不安になる。何の価値もない、つまり、ひとかどの人間になることなく人生が終わってしまうことへの恐怖によるものだ。

実際的で主体的な幸福を望んでいながら、尚、他人の評価によって受けられる幸福を求めている自分がいる。

僕は、どうすればいいのだ。

ん? どうすればいいかだってぇ?

この言葉は、とにかく良い結果が欲しがっているという、自分のあり方を示している。自らの明確な意思以外の行為によって、良い結果を得て、何の意味がある?

《なんか、面倒くせぇ野郎だなぁ。おまえは、何を望んでいるのだ。》

悲しみからの自由。恐怖からの自由だ。

などと、のたまいたいところだが、本当のところ、怪しい。

単純に、いい女とのセックスとか大金を得るといった分かりやすい欲望の達成が第一の望みなのかもしれない。

僕に分かるのは、日々の行為が葛藤と矛盾に満ちているという事実が、僕が僕を知らないことを示しているということだ。

だから、自分を知ることが、全てに先立つのだ。

結局、空しい正論に行き着く。

ないものねだりか。

でも、どうして行為に決心が必要なのだ、いちいち。

決心。僕にとって、それは、‘えい’と、葛藤を抑圧する手段でしかない。

この悲しみの闘いを終焉させるもの。それが、‘自発性’なのだと、僕は思う。

 

 


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