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意味のベクトル ① [僕の こじつけシンクロニシティ物語]

 悩めることへの答えの示唆は、どこか‘向こう’からやってくるように見えることがある。
 以前、格闘家の須藤元気が、自分が今かかえている問題事の答え、あるいはそのヒントが、たまたま電車に乗った時に目に飛び込んできた中吊り広告の1行に示されているようなことが、しょっちゅう起きるといったことを語っていた。
 特に、不思議なことではない。当たり前のことである。
 顕在的であれ潜在的であれ、気にしていることに関する言葉が視界内に入ると、その部分に視点が無意識にストップするなどというのは、脳の検索機能が自動的に働いたに過ぎない。
 そういう時に、僕たちは、須藤氏よろしく、その目に留まった言葉の‘自分への意味’を、つい構築してしまうわけだが、これは、‘世界’の方からのメッセージングを感知したということではなく、見た事象に、自分の方から投影的に意味を与えているだけのことのである。
 つまり、「意味のベクトル」は、自分から世界(事象)へ向かっているのである。
 僕が望むのは、実際に世界から自分へ向かうベクトルの「知覚」である。
 そのベクトルの元は、大いなる知性とも呼べる何かなのだが、それは、言語や論理(思考)とは無関係に存在している。
 事象が言語で語り出したら、それは電波系の妄想である。そして、その意味内容の製造元は、あくまで、当人の脳である。
 では、僕たちは何をもって、意味のベクトルが世界(事象)から、こちらに向かったものであることを知ることができるのだろう。
 言語、論理、推理(これらは時間幅とともにのみ存在できるものなのだが)といったものを一切介さないで、つまり脈絡なく、意味が感知されたという事実をもって、と僕は言う。
 実際は、言語によらない世界(事象)発信の意味を感知した途端に、脳が言語化するかもしれないが、これは先に述べた電波系とは似て非なるものである。あくまで、‘意味’の方が先であることが重要である。只、脳の言語化の運動は非常に素早いので(例えば、僕たちは、人の発する言葉を聞く時、発声とほぼ同時にその意味を認識する)、‘意味’を感知できる人間といえども、常時、生身の脳の働きに依存して生きているのだから、電波系的錯覚に気をつけている必要はあるだろう。
 知覚した者が、‘意味’について、人に伝える時は、もちろん言語化する必要があるが、そこで表現されたもの(答え)は、‘意味’そのものではない。
 知覚された‘意味’は、時間幅を持たないし、それを必要としない、問いと答えが未分化の状態なのである。

 

 

 

 


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励みと慰め [僕の こじつけシンクロニシティ物語]

 このところ、北陸地方を中心に、空からおたまじゃくしや川魚が落ちてくるという怪現象が起きている。
 
 個人的なことで、僕にも、今日、不思議なことが起きた。
 ビデオデッキのハードディスクに録画してあった150時間分のテレビ番組が、突然消えたのだ。
 いつか見るつもりで、2年以上も見ていない番組も含まれていた。今日、予約録画したものだけが残っていた。
 
 テレビ中毒の僕が、それほどのショックを受けなかった。
 ある種の虚脱感。
 
 録ってある番組を、本当に全て見るには、150時間かかる。現実的に考えたら、ついに見ない可能性の方が高い。現に2年前の引越しの時、録画しただけで一度も見ていない番組を含むビデオテープを200本近く捨てた。それまで住んでいたマンションが建て替えられるということで出て行かざるを得ないという状況に‘促されて’だった。
 
 テレビ番組を見る時間に、人生の時間がどれほど費やされているかといったことを考え、ゾッとすることは、これまでよくあったが、その生活パターンは、全く変わらず継続してきた。そこが、テレビ中毒たる所以、つまり、ある種、患者なのだ。
 
 根っからの怠惰性が基本にあることは間違いないが、テレビの存在が、それを大いに後押ししていたことも、また事実だ。
 終わりなきテレビ麻薬が支配する生活。自分の意志力など、軽く凌駕していた。
 
 ある意味、今回の出来事は、他者からの強制終了だった。
 テレビは、竜宮城に似ている。
 気がついたら、文字通り馬齢を重ね、僕は歳を取っていた。
 
 人の意志力とは、何と無力なんだろう。
 いや、本当にヤバいのは、その事実を前提として受け入れないで流されることのほうだ。
 この、たぶん想像を遥かに超えた、この状態の継続力に対して、僕は甘く見ることをやめなかった。つまり、漠然とした希望で、実際的行為を先送りにしてきたのだ。
 そして、長い年月における僕のあり方の事実が、僕の意志の無力を証明していた。
 
 僕は、問いに対する答えを求めていた。
 僕は、特にこのところ願っていた。自分が、24時間の瞬間瞬間に可能な自分の行為に気づき、またそれを見出すということ自体を想起できますようにと。
 
 先週、僕は、自分と縁の深い神が祭られている神社に行った。
 お願い事は、しなかった。
 只、これまでの自分のあり方を詫びたのだ。
 いつもは、お参りの直後、暗示を得るため、おみくじを引くのだが、この時は、うっかり有り金の全てお賽銭箱に入れてしまい、引くことができなかった。
 まぁ、どうせ、本当にその内容を生活に生かせたことは、これまでにもなかったし、今回の主旨は、詫びることだったので、それもいいだろうと思うようにして帰った。
 
 今回のこのビデオデッキの出来事は、そこそこ分かりやすい、信憑性のある答えの現象かもしれない。
 他人から見れば只の偶然だが、とにかく150時間を費やして見るというノルマから、僕が解放されたことは確かだ。
 そして、この答えは、根本的な意味での孤独を知る僕にとって、励みと慰めになった。
 
 

 

 

 

 


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意味のベクトル ②-1 [僕の こじつけシンクロニシティ物語]

 仕事で、ある雑誌を読んでいて、たまたま、蛭川 立という進化生物学者の文を目にした。
 「日常的な認知の枠」から自由な状態で目を開けたら、「世界そのもの」が見えてしまう、という表現が気に入った。
  
 この‘世界そのものの体験’は、あるキノコに含まれる幻覚作用を起こす成分によって比較的簡単に得られるのだという。
 近代社会が、こういった幻覚剤を危険視するのは、「日常的な認知のフレーム」への依存性が失われる恐れがあるからだと、蛭川氏は述べている。
 
 ここで言う「世界そのもの」を、あえて‘世界’と呼ぶなら、近代社会というものは、‘サブ世界’ということになるだろう。
 僕たちは、生存し続けるための条件(例えば明日の食料を得ること等)を、このサブ世界のシステムに依存しているわけだから、そのシステムを保管し、継続する営為に、当然、参加すべきという思想には、最大多数の共感が期待できる。
 そのことが踏まえられ、さらに、社会‘秩序’、あるいはサブ世界の維持は、万人にとっての当然の義務であり、疑いようもない価値を有しているという、何となくの共通信仰が生まれたのだろう。
 
 基本的な意味としては、秩序とは、平衡が保たれた状態を指す。
 僕たちは、何らかの秩序を信仰し、適合することで、信仰仲間から認知されるという心理的な安定感というご利益(報酬)を得ている。
 このご利益が得られることで、僕たちは、さらに、この信仰を深めることができるという循環だ。

 

 

 

 

 


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