風にたゆたう答え [『 ‘ 風 ’ を説く無造作おじさん 』]
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大戸屋(家庭料理風定食チェーン)で、「大戸屋ランチ」を食べていた。
ほぼ毎回、この店でいちばん安い定食メニューだ。
ポイントカードのポイントが貯まったら、そのサービスで、いちばん高い定食を食べる。
最近、そんなパターンが定着した。
隣の席に、初老の浮浪者風の男が座った。
給仕の女の人に、何やら問いただしているようすだ。
僕は、そちらを見ないようにして、持ってきた本を読んでいた。
いきなり、そのおじさんが、とんとんと肩を叩いてきた。
びくっとした。
風貌通りの、ややろれつが回っていないようなしゃべり方で、
「大盛り、タダだって。」と言ってきた。
大盛りサービスについての説明を受けていたのだろう。
僕は最小限の愛想で、「あ、そうですか。」と、話を続ける意思がないことを伝えるように、本に戻った。
すると、「あなた、びくっとしたけど、肩叩かれて呼ばれたことないの?」と言ってきた。
なんという質問だ。
「そ、そうですね。」
僕は、相手を刺激しないよう、また最小限の愛想で言葉を返した。
僕のそっけない様子を見て、そのおじさんは言った。
「にいちゃん、閉じてるねぇ。」
少し前、脳科学者の茂木健一郎氏が、TV番組で「セレンディピティ」( ‘ 偶然の幸運 ’ )という概念を紹介していたことを思い出した。
1990年代以降の脳研究の成果によると、目の前にいろいろな幸運のきっかけ(出会い)があっても、ほとんどの人間は、このセレンディピティをつかむことができないようにできているというのだ。
一部の才能ある人間は、それをつかみ幸福を手にしているのだが、通常の人間は、それをつかむための意識を、あえて持つ必要があるという。
彼は、セレンディピティをものにするための3つのポイントを提唱した。
①行動
②気づき
③受容
①の「行動」は、‘ 場 ’ に身を置くことだろう。たとえば、家にこもっていないということ。
②の「気づき」は、顔を上げて、視野を狭く集中させることなく、目の前に起きていることを、分け隔てなく見ていることで起きるという。
僕が、最も注目させられたのは、③の「受容」だ。
自分にとって重要なことが起きているかもしれないのに、「多くの場合、それが、今までの価値観とか世界観とズレてる事が多いから、」 その出来事が持つ可能性を ‘ 受け容れ ’ ないという。
そのことによって、せっかくの「気づき」が、セレンディピティとして成立しないと、彼は言うのだ。
大戸屋での非日常的な出来事。
僕は、いつも通り「受容」を拒否していた。
だが、初老のおじさんは、さらに素朴な疑問を投げかけ、踏み込んできた。
「食事の時まで、そんなふうに本を読んで、役に立ったの?」
「ええ。まぁ。」
「答え、得られた?」と、おじさんは、ややにこにこ顔で聞いてきた。
「ええ、それなりに。」
「得られないだろう。あんた、世界に対して閉じてるのに。」
世界? 世界って、なんのこっちゃ、と思っていると、
「対話しないと。」と、おじさんは言う。
「対話って、おじさんとですか?」
「俺を含めた全部だよ。世界とだよ。」
世界…。全部。つまり、森羅万象ってことか。
「あんた、対話、苦手か。したくないか。」
「そんなことはないですよ。」
「どんな人と、したいんだ。」と聞いてきた。
僕は、‘ めんどくさ! ’ と思い、ややからかうつもりで、こう答えた。
「たとえば、神さまとか。」
さすがに怒るかな。
おじさんは、やや困った顔をして、
「そいつは、やっかいだなぁ。最低、相手の言葉が聞こえないとなぁ。」
と言った。
「そこなんですよ。」
僕は、まじめにふざけていた。
「まぁ、でも不可能ではないな。にいちゃん、言葉が通じない相手と話す時、どうする?」
また質問か。
「ボディランゲージとかしかないんじゃない? 身振り手振りみたいな。」
「そりゃ、言ってみりゃ、行動だな。その行動に、あえて意識して意味を込めてみるってのはどうだ。」
何を言っているんだ、このおじさん。しゃべり方と内容に、ギャップあり過ぎだろ。
おじさんは、続けた。
「そんで、それに対して‘ 起きた ’ことに注目するってのはどうだ。それを、神からの言葉だと思って。」
「なるほど。でも、それってきっと、ほとんど自分の思い過ごしになるんじゃない?」と、僕は返した。
日常で起きることは無限にある。結局、それらから自分への答えとして当てはめられることを、恣意的に ‘ 自分が ’ ピックアップするだけのこと。なんかの宗教に盲信した信者がよくやっていることだ。
おじさんは、「でも、もし、」と、希望をつないできた。
「そこの因果関係がリアルに感じられれば、にいちゃんは、神と対話したことになるだろう。」
リアルにねぇ。
「そんな感じがしなかったら?」
「にいちゃんは、その神と、ご縁がなかったってことだろ。」
僕は、‘ 楽観 ’ と ‘ 悲観 ’ のちょうど中間にいた。
なんとなく、そこが、真実を見つけるのにふさわしい場所のような気がした。
ん? ところで、このおじさん、何者?
見ると、給仕のお姉さんにクレームをつけていた。
「 今ごろビール来たって、もうごはん食べちゃったよ。」
ビールが来るのが遅かったようだ。
「ひどくねぇか。そう思わん?」と、僕に振ってきた。
「そ、そうですね。」
僕は、おじさんと話し始めた時と同じリアクションを返していた。
あの時の出来事。
あれは、セレンディピティだったのだろうか。
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「やさしくなりたい」 という願い [『 ‘ 風 ’ を説く無造作おじさん 』]
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公園の街路樹通りのベンチで、たいやきを食べていた。
これと、ホットコーヒーが絶妙に合う。
ホットコーヒーは、大福とも合う。
浮浪者風の初老の男が近づいてきた。
ん? あれは、こないだ大戸屋で話しかけてきたおじさんだ(「風にたゆたう答え」)。
「よぉ~!」
と言って、隣に座ってきた。
やれやれ。僕は、人の目を気にして、思わず左右を見た。
このおじさんと知り合いと言えなくもないので、無視もできない。
「どうだい。神さまと話せたかい?」
開口一番、それかい。
僕は、また左右を見てしまった。
「もちろん、話せてないですよ。そんな簡単なもんじゃないでしょ。」
「そうか。」
会話終了!
と思っていたら、おじさんは、じっと僕の顔を見ながら言ってきた。
「おまえの顔、男気があるな。」
「オトコギ? 僕の顔がですか?」
何を言っているのだろう、このおじさん。
「どういうことですか?」
「たとえば、おまえ、人に足を踏まれたら、怒るだろう?」
「ええ、まぁ。」
「怖い顔になるだろう。」
「なりますねぇ。怒っているわけだから。」
「どうして。」
「踏まれて、痛いからですよ。」
「踏まれたのは足だぞ。足が怒ればいいじゃないか。」
「はぁ?」
何だ、この会話は。僕の怪訝な表情にはおかまいなしに、おじさんは続けた。
「顔と足。結構は距離だ。たとえば蟻にしたら、ちょっとした遠出だ。おまえだったら、すぐタクシーを拾おうとするだろうよ。」
確かに。僕は、歩いて5分の所へ自転車で行く男だ。ん? いやいや。蟻の場合は、蟻の頭と足の距離だろう、そこは。
と、僕は心の中で突っ込んで、彼の話を聞くことにした。
「足を踏まれて、おまえの顔は怒りの表情になる。踏まれたのは、足なのに。つまり、おまえの顔は、人のことを我がことのように怒った。一瞬にして。」
「それは、顔も僕。足も僕。一体ですから。蟻にとっては長距離でしょうが。」
「そうか、そうだったな。もともと一体だもんなぁ。なるほど。それで、俺は、おまえの顔を見て、男気を感じたんだな。」
男気。この言葉に、おじさんは、どういう意味を込めたんだろうか。
自分の理念によるポーズとか他人の評価とは関係なく発動する優しさ。
みたいな?
少なくとも、僕に、それがないことは確かだ。
そのことを、僕は、事あるごとに確認させられて、その度に、寂しくなるのだ。
「もともと一体のものを、一体にすることはできないよな。」
そう言って、おじさんは、よいしょと立って、どこかへ歩いて行った。
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ひとりぼっちのあいつ [『 ‘ 風 ’ を説く無造作おじさん 』]
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仕事をほとんどしていないので、貯えは、徐々に減っている。
とにかくもう 学校や家には
帰りたくない~
( 「15の夜 」 尾崎豊 )
みたいなノリで、仕事をしたくないだけのこと。
人を納得させられる理由は、何もない。
いつも行く公園のベンチに座っていた。
「 風のテラス 」 を抜けた先の大きな公園。
いつものベンチは、公園の中央を走る通りの両側にある。
ネットで見つけた仕事の説明書のコピーを読んでいた。
家でできる仕事なら、ギリギリ気力が続くかなと思い、登録してみた。
面接なし。年齢制限なし。履歴書提出なし。
登録するのは、職歴と住所と名前。あと、振込先くらい。
数日後、仕事(案件)の募集が入った。
ダメ元で申し込んでおいたら、すぐに 「 担当者にアサインされました 」 という通知が来た。
それにしても、アサインて。
最近(いまどき)の表現なのだろうか。
‘ しかし、どこの馬の骨とも知れない奴を、いきなり、案件に当たるチームの一員にアサイン(任命)するなんて、どういう会社なんだろう。’
とは思ったが、どうせ暇だし、ということで、やってみることにしたというわけだ。
そんなダメ元仕事の説明書をベンチで読んでいる僕に、誰かが声をかけてきた。
「よぉ~! いつかの……。」
顔を上げると、あの初老の説教おじさんだ。
「あ、どうも、おひさしぶりです。」
って俺は何を言ってるんだ。親しい知り合いみたいじゃね~かよ。
「おまえは、いつも、ひとりだなぁ。」
と、僕の隣に座りながら、親しげに言ってくる。
「この近くでひとり暮らししているんで、普通ですよ。」
「いや、いかにも、おまえは、ひとりが似合い過ぎてる。」
はぁ? なんだいそれは、と思ったが、
「それは、どういうことでしょうか。」と、僕はクールに聞いた。
「おまえ、ひとりが好きだろう。」
「え?」
僕は、言葉に詰まった。
確かに、そうだ。
僕は、ひとりでいるのが、相当に好きだ。
人間関係は、ご他聞に漏れず、疲れる。
多かれ少なかれ、誰もが何らかの悩みを抱え、最も多いその内容は、人間関係だというデータを見たことがある。
気楽な人間関係ならいいが、緊張を強いられる人間関係の方が少なくないことは、ほとんどの人にとって避けられない事実だ。
特に僕に関しては、たとえ気楽な人間関係でも、最低限の緊張はある。
いずれにしろ、全くのノーストレスな状態はないということか。
とはいえ、全くの孤独だと、これまた耐え難い。
やれやれ、漱石の 「 草枕 」 の冒頭みたいだ。
ひとりが好きか。それとも嫌いか。
結局、‘ 程度の差 ’ でしかないということだろう。
ひとりが好き。
人といるのが好き。
それは白黒はっきりさせられるものではなく、その時々で揺れ動いて、僕たちは生きているのだろう。
どこにいても、双方の要素を含み、それゆえに矛盾した居心地の悪さは避けられない。
全てが、バランスであり、今、自分がどの位置にいると最も心地いいかを、是々非々で知ることが、僕たちにできる全てなのかもしれない。
時に、ひとりが癒しになる。
時に、人といることが癒しになる。
只、僕は、明らかに、前者に傾いている。
「おまえ、ひとりが好きだろう。」
その通りだ。
あるいは、寂しさを、深く深く抑圧しているだけのかもしれない。
淋しくないか ひとりの夜は
話す相手は いるのだろうか
( 「 おやすみ 」 谷山浩子 )
優しい言葉だ。
ひとりぼっちの苦しさを知っているから、ひとのそんな苦痛を心配する。
そのような優しさは、僕には、たぶん、ほとんどない。
僕にとって、ひとりは、少なくとも、耐える対象ではないから。
だから、そのような優しさを与えることもできないし、きちんと受け取ることもできないだろう。
そんな僕に、人は、きっと、こう言うに違いない。
「心の寂しい人だ。」と。
僕は、初老のおじさんに言ってみた。
「おじさんも、ひとりが、似合い過ぎてるよ。」
「そうかぁ。俺たちは、似た者同士ってわけか?」
「寂しいときは、ないの?」と、僕は敢えて、無邪気に聞いてみた。
おじさんは、言った。
「もし、寂しさで、心が不幸になるなら、おまえは、寂しさに弱みを握られていることになる。」
やれやれ、ここで、説教か。
僕はさらに、自分の聞いてみたいことを、ずるいマスコミの記者のように一般論化して聞いた。
「そんなややこしいこと言ってたら、おじさんのことを、『 寂しい人だな。』 って、みんなが憐れむんじゃないかな。」
おじさんは、にっこりして言った。
「本当に憐れなのは、どっちかな。」
おじさんの笑顔には、無理も誇りもなかった。
そこが、僕とおじさんの決定的な違いなのだろう。
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