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鳥居みゆきからのメッセージ [いつまでたっても テレビっ子]

 昨日、「ザ・イロモネア」というお笑い番組で、鳥居みゆきが、モノボケをしながら、終始、小田和正の「たしかなこと」を歌っていた。
 曲と芸風との不似合いさが、興味を引いた。
 
   ♪ 哀しみは 絶えないから
     小さな 幸せに 気づかないんだろ?
 
 人の悲しみの要因となることは、常にあり、そして、次々にやって来る。
 昔から‘悲しみを越えて…’などという言い回しをよく聞くが、多くの人たちは、実際、そうしてきたことだろう。
 その都度、耐え、時には逃げ、慣れ、老獪さを身についていく。
 
 だが、僕が望むのは、悲しみの外的要因への具体的アプローチではなく、僕が、それによって苦しんでいる現象自体、悲しみそのものを超えることだ。
 
 身体的苦痛以外の心的苦痛は、たぶん、究極、客観性も普遍性もない。
 元よりそれそのものが悲しみであるという客観的事実など、存在しないはずだ。
 
 絶えないのは、悲しみではなく、‘悲しみとされる’出来事なのだ。
 そして、それは、確かに絶えない。これまでも、この先も。
 だから、それの一つ一つに対処し、一喜一憂していたら、その営みの連続に溺れたまま、人生は終わるだろう。
 
 酒を飲むと、心が苦しんでいるという現象そのものが、どこかへ行ってしまう。
 しらふの時に、確かにこの心にあった苦痛。その原因となった記憶自体が消えたわけではない。
 只、苦痛だけが消える。
 その時、僕は思う。
 しらふの時の人生が本当なのか、それとも、今の人生が本当なのか。
 
 そんな僕に、酒は、こう語っているようにも思える。
 「おまえの選択だ。俺とは関係ない。」
 
 実際は、どんなに願っても、アルコールの作用が消えるとともに、苦痛は帰ってくる。
 そして、悲しみが絶えない時間が始まる。
 
 でも。尚、僕は思うのだ。
 しらふの時にも、僕に、悲しむことと悲しまないことの選択権はないのだろうか。
 だとしたら、僕たちは、永遠に幸せに気づかないままだ。
 
 そんなはずはない。
 どんな出来事も、それ自体が、悲しみの苦痛を生成するなどということはない。
 いわゆる悲しみとされる出来事を、僕の習い性が、即座に、苦痛に連結させているのだ。
 つまり、僕が勝手に、悲しみを、悲しむことを、選択しているのだ。
  
 人に対しての常識的な応答。出来事への常識的な反応。
 鳥居みゆきの芸風は、それらを、極端に放棄したものである。
 そんな彼女が、見開いた狂気の目で、繰り返し、
 
   ♪ 哀しみは 絶えないから
     小さな 幸せに 気づかないんだろ?
 
 と歌っていたのだ。
 示唆的と言えなくもない。

 

 

 

 

 

 


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80年代に起きた松田聖子プロジェクトについて [いつまでたっても テレビっ子]

 未だに、僕は、だらだらとテレビを見るテレビっ子である。
 まるで、最もはずせない日課のように、毎日、テレビ雑誌片手に、翌日の予約録画をセットする。
 そんな時、自分の娯楽なのに、チャップリンの『モダン・タイムス』の工員のように、機械と時間に追い立てられているような感覚もある。
 
 中毒といえば、中毒だ。
 とても楽なインプット。
 充実した生活は、相応したアウトプットが不可欠なのだろうが、奈何せん、アウトプットは疲れる。
 
 情報を吸収することを学ぶことと呼ぶなら、僕は、お手軽に学習している。
 お笑いもドラマも、クリエイターの表現である。
 それを感じ、理解し、咀嚼するだけでも、昔(100年も遡れば)に比べたら、人生に、相当な密度をもたらしていると思う。
 だが、それが、どんなに豊かでも、表現(アウトプット)がなければ、人間は、精神のバランスを欠き、多かれ少なかれ不全感を感じてしまうのではないか。
 
 昨日、テレビを見ていて、深く合点の行くことがあった。
 『ザ・ソングライターズ』という佐野元春の対談番組。
 ゲストは、作詞家の今となっては大御所、松本隆氏だった。
 
 対談の中で、松本は、「松田聖子は、パフォーマンスの天才だよね。」と語った。
 僕にとって、全くの発想外だった。
 しかしだから、僕は、それを偶然の不思議と考えていた。
 1980年代から長きにわたって、松田聖子は新曲を発表する度、チャート1位になり、CDセールスも十分に伴っていた。
 2曲目の「青い珊瑚礁」以来、新曲を聴いた途端に、売れて当然という感すらあった。
 
 松田聖子に、なぜ、こうも良質な曲が集まるのか。
 事務所が、それなりに力を入れ、たまたま優秀なプロジェクトチームが集まったのだろうと、何となく考えていた。
 つまり、なぜ、それが松田聖子だったのかという問いは、あらかじめ放棄されていた。
 
 松本の話を聞いて、「そうか。」と、図らずも腑に落ちた。
 彼女は、天才だったのだ。
 「松田聖子は、80年代を象徴するディーヴァだったのではないか。」という佐野の問いに対して、松本は、80年代ではなく「戦後を象徴している。」とまで言った。
 
 美空ひばりが天才だったというのは、まだ分かりやすい。
 美空ひばりは、完璧なピッチを保った上で、そこに心を入れている。何か具体的な、天才の片鱗を示すエピソードを聞かされなくても、直接、歌から感じ取ることができた。
 
 松田聖子に関する具体的なエピソードが、現場に居合わせていた松本から語られた。
 彼女は、レコーディング当日に完成詞を初めて見て、メロディもディレクターの鼻歌で3回聴いたら覚え、3回練習して、3テイク程の歌入れでOKになっていたというのだ。
 これは、客観的な能力として驚くべきことである。
 
 「平たく言えば、天才ですね。」
 しかし、松本にそう言わしめた第一の理由は、松本渾身の詞の内容を、彼女は自分の中で瞬間的に消化し、それを全身で表現するという業を、あまりに自然にサラッとやってしまうという事実にあった。
 
 そういえば、と僕は思い返した。
 松田聖子の歌を聴いていると、あのときめきや切なさを伴ったヴィジュアライゼーションが、僕の中で自然に起きていた。
 あまりに自然だったのだ。それを、僕は漠然と、楽曲の力によるものだと思っていた。
 
 どうやら、違っていたようだ。
 当時、僕は、取り立ててファンではなかったが、確かに、彼女のマジックを体験していたのだ。
 
 「そうだったのか。」
 そんな、思わず膝を打つ瞬間を、テレビは、時々もたらしてくれる。
 そして、その瞬間、僕は、それを誰かにアウトプットしたいと望んだというわけだ。

 

 

 

 

 

 

 


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のりピーの孤独な旅 [いつまでたっても テレビっ子]

 毎日、テレビのVTRで流れる酒井法子の映像。
 その表情を見ていると、目の前の人にそつなく応答しているのだが、何か実感が伴っていないような感じを受ける。
 ほとんど、状況や立場への適応に終始しているだけのようにさえ見える。
 その印象が、僕の後知恵と言われれば、それまでだが。
   
 たぶん、彼女は、自分がやっていることを分かった上でやっていたし、今も、覚醒剤を始めたこと自体への後悔はないだろう。
  
 只、空しかったのだ、人が羨む成功の中にあってさえ。
 その空しさを埋めるもの、とりあえず応急的に埋めるものを、彼女は必要としていたのだろう。
 でなければ、アイドルがサーフィンにハマったりしないさ。
 波との一体感にリアルを感じることに執着する自分。
 そんな自分への理解者であるサーファーから、夢の煙がもたらされた。
 きっと、それだけのことだ。
 
  法律違反? 社会的な影響? 業界関係者への迷惑?
  私が、‘直接’迷惑かけた?
  私が、いつ、秋葉原で包丁振り回した?
  それを大げさに騒ぎ立てる人たちがいなければ、
  何の問題もないでしょう?
  
 たぶん、そんな心境だろう。
 
 彼女が旦那の別荘に訪れている時、お香が焚かれていたという。
 覚醒剤をあぶった臭いをごまかすためだと取られているようだが、そうだろうか。
 覚醒剤をあぶって、家の周辺に漏れるほどの臭いが出るとは思えないが。
 
 ちなみにお香は、多くの宗教で、精神の次元をシフトさせるための補助道具でもある。
 意外と、目の前の手っ取り早い方法とは別な方向でも、空しさを解決する価値を模索していたのかもしれない。
 
 きっと、酒井法子は、忙しくて、退屈だったのだ。
 
 ところで、僕たちは、なぜ悲しむのだろう。
 心は、なぜ、不本意に憂鬱になるのだろう。
 もし、身体的苦痛があったら、それは、確かに苦痛だ。
 でも、心理的悲しみは、結局、自分の脳が作り出している。
 
 人を苦しめる客観的な因子(言葉、出来事)などない。それを苦しみにしているのは、自分自身なのだ。
 たった今不快感があれば、その原因は、究極、自分である。
 その出発点に立って初めて、僕たちは、自らの幸福を自ら築き上げることへの可能性が生じる。
 
 誰の手も借りずに、また、それゆえに本物の幸福感と共にあることを望む存在。
 そんな存在を、僕は、真のエゴイストと呼ぶ。
 もし、この真のエゴイストが何かに感謝したとしたら、それは、本物の感謝と言えるだろう。
 
 実際問題、悲しみは、誰でも嫌いである。
 だが皮肉なことに、僕たちは、それを恐れる余り、あらかじめ悲しみを、望んで作り出すのだ。
 つまり、僕たちは、悲しみを、不本意にも好きで作り出す存在なのだ。
 
 理念では救われない。
 常識では救われない
 法令遵守では救われない。
 あの無思慮で残酷な低能以外は。
 
 本当に救われたい者は、悲しみのパターンに引き込み、悲しみを事実としてしまう自分自身の型や枠そのものが消失することを望む。
 それを望む発想もない人の善意や正義は、とても鬱陶しい、ありがた大迷惑でしかない。
 
 のりピーが、浮世離れした夫の贈り物によって、偶然、垣間見てしまった世界の感覚。
 この感覚は、常識的な社会正義や幸福観による凡庸な非難が持つ説得力を、根底から粉砕する。
 
 のりピーは言うだろう。
 「理屈はいいよ。分かったよ。でも、現に、人生全体をうんざりさせる苦しみは、
 (胸を指して)ここにいつもあったし、今も、ずっとあるの。
  ありきたりな善悪の基準で人を非難することに酔いしれるのは、能天気なバカだけよ。
  私の問題は、善悪を超えたところにあるの。 
  あなた方が能天気に信じてる常識的な観念が、私を本当に導けるの?
  あなたを、どこかに導いたの?」
 
 誰の答えも、のりピーに響かないだろう。響かなければ、それは、少なくとも、のりピーに対する答えではない。
 答えられるのは、事実として、自らが、いわゆる幸福や正義への幻想や妄信とは無関係な次元で救われた者のみである。
 
 のりピーにとって、これから地獄の生活が始まる。
 本当の幸福の感覚を、安易に得ようとした代償は大きいようだ。
 
   Christ !  You know it ain’t easy,
   You know how hard it can be.
     The way things are going,
     They’re gonna crucify me.
                                    (「The Ballad of John and Yoko」 by Beatles )
 
 本当の幸福を望むこと。
 おそらく、それ自体、相当、高いリスクを孕んでいるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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