朝青龍という存在が、僕たちに問うたもの [いつまでたっても テレビっ子]
朝青龍が、長野智子に品格について問われた時、「人の真似をすることはない。」と答えていた(「サンデースクランブル」テレビ朝日2/14放送)。
思うに、品格とは、我知らず備わるものであって、演じるものではない。
むしろ、演じることで、下品になる。
朝青龍に我々日本人が求めたものは、品格という漠然としたイメージを演じることである。
よく、「謙虚であれ。」という。
だがもし、その人が、謙虚を‘演じたら’、それは、逆に‘自惚れ’である。
だから、本当の意味で謙虚な人は、それを演じようとは、露とも思わない。
相撲とは、元々、神道に基づく神事に始まり、現在のいわゆる大相撲は、それが興業形式化したものである。
今も昔も、力士は、伝統儀礼に則り、優れた力を競い合うという行為の中で、より高みを目指し精進するのみである。
その結果、もし、横綱に品格が備わらなければ、それが、ありのままの現代相撲なのである。
その責任は、力士個人にも、相撲協会にも問われるべきことではない。
神々しい品格が、大横綱に備わることは、現在でもあり得るだろう。
只、横綱審議会が考える品格は、凡庸な道徳観から考え出されたイメージに過ぎない。
彼らから品格のお墨付きをもらうための第一の資格は、他人の目を意識したセルフコントロールに長けていること。
これは、本質的な意味で考えると、むしろ品格とは真逆ではないか。
品格は、そんなちまちました好感度計算で形作るものではなく、むしろ、天真爛漫さの先にあるものではないだろうか。
その先にある本当の品格は、あるいは一見、乱暴者に見えるかもしれない。
そこに品格がある時、それを品格として見ることができるよう、僕は、横綱審議会や、それに同調するマスコミから発せられるノイズから自由でありたい。
今、一つだけ言えること。
他人に品格を問う者は、その時点で、卑しい。
スマップ中居君をも猛勉強させた池上彰的潮流 [いつまでたっても テレビっ子]
民主主義が正しく機能するか否かは、一人ひとりの民度にかかっていることは、その思想が考え出された時からの前提である。
日本というこぢんまりした国で、教育水準も高く、しかもインターネットがこれだけ普及すれば、直接民主性も、システムとして可能な時代に入った。
だが、直接民主性が、いかに危険か、インテリでなくとも、ある程度の想像力のある人なら分かる。
細かな社会政策なら、やってみなければ分からないという面が多々ある。
よかれと思って行った立法が、うまく機能しない場合もあるし、あらかじめ悪く働く可能性を心配していたが、やってみたら杞憂に終わることもある。
しかし、憲法の内容や国防のあり方など、重要な案件に関しての決定に際しては、民度の確かさが抜き差しならない重要性を持つ。
民度を上げる。
基本の基本のこと。それこそが、絶望的に難しい。
最も単純なことが、最も難しい。
それは、芸事、職人芸といったあらゆる文化的行為に通じることでもある。
最近、テレビで池上彰がクローズアップされている。
彼は、今、日本で、いちばん尊い仕事を担っているのかもしれない。
それは、社会的、あるいは政治的リテラシーの底上げという、民度の向上のために最も重要なのに、実効性が伴いにくい最も骨の折れる作業だからだ。
彼が役割として、それが成せているのは、国民一人ひとりの現実的不安が一定レベルを超えた今だから可能なのだろう。
10年前だと、折々の社会問題に関して、基本的な用語の説明や、起きていることの意味を解説するといった番組が視聴率を取れたかどうかは怪しい。
今、日本に希望があるとしたら、池上氏を起用するテレビ番組を、国民が、ある程度の視聴率という形で支えているという事実だろう。
民主主義国家の成功は、それが代議制であっても、一人ひとりの参加意識にかかっていることには変わりない。
先日、スマップの中居君司会の政治解説番組(補佐に池上氏が据えられていた)を見た時、改めて、この日本は、世界的な視野から見て、ユニークで尊い国なのだなと思えた。
やや差別的表現だが、ナイーブな女子供の象徴のような柳原可奈子が、「そういうことだったのかぁ。」と納得の大声を上げている光景は感動的ですらあった。
社会で起きていることの意味を知りたい人が多くいるという事実は、その社会、あるいは国家の資質を示していると言っても良いだろう。
そんな資質が日本人にあったことは、正直、僕にとって、いささか嬉しい誤算である。
お人好しで、自虐ネタが好き。そんな日本人に苛立つこともしばしばだが、上記のような状況を見て、この日本という国は、生まれ育った土地だからという根拠だけではない愛国心を持ち得る国である、という思いを新たにした。
ベッキーの「ありがとう」 ──愛という原資── [いつまでたっても テレビっ子]
「ありがとう」と直接あなたに言える、この距離にありがとう
(『ベッキーの心のとびら』)
これは、従来の「ありがとう。」とは、次元の異なる言葉である。感謝の念の表出。その対象が、必ずしも目の前の特定の人間ではないという意味において。
上のベッキーの表現は、オリジナリティが高かったので、特に注目されたようだが、そのような感情の言葉の表出は、誰にも起き得る。
たとえば、誰かに「いてくれてありがとう。」。
子が親に「産んでくれてありがとう。」。
親が子に「生まれてきてくれてありがとう。」等々。
ここで僕が注目したいのは、‘私’に働きかける‘あなた’に、ありがとう、ではなく、‘あなたが存在している事実’に、ありがとう、と言っている点である。
従来、ありがとう、という言葉は、特定の個人の具体的な行為に対するものとして、僕たちは教わってきた。
例えば、叔母さんからお年玉をもらった時、親が子供に「ありがとうは?」みたいに。
‘その個人が存在している事実’という抽象的な概念が対象になっている時の「ありがとう。」は、自分自身の感慨の不可抗力的な表出である。
それは、自分の心の奥深くで生じ、それゆえに、指向性を持たない。
もちろん、目の前の具体的な個人が無視されているのではなく、むしろ、相手の特定の行為や言葉を突き抜け、存在のレベルでのその人に届いてしまう。
指向性を持たない感謝が、相手の存在のレベルに達してしまうというパラドックスは、神秘ですらある。
そして、感謝の気持ちを受けた側は、存在のレベルで支えられたことによる、不思議な安心感と癒しを得、その事実によって、感謝している相手への感謝が生じる。
不可抗力的に。つまり誰も頼みもしないのに。
僕の個人的な経験では、僕を本当の意味に助けたのは、僕を助けようという‘下ごころ’がない人たちだった。
その時の感慨は、誰かの意図によって与えられたものではなく、自らの内から勝手に生じたものである。その感慨は、愛の感覚に通じ、それゆえに指向性を持たなかった。
その「ありがとう」に、もし、あえて指向性を持たせたら、その感慨は、愛というエネルギーの原資から離れていく気がした。
愛とか言っているが、僕は、優しくない人間である。
開き直りでもなく、謙虚さ志向でもなく、自覚である。
寂しい話ではあるが、それゆえの特権がある。
優しい人を見た時、感動して、涙を流すことができるという特権だ。
涙を流すのは、優しい人ではなく、
優しくない人の方なんだ、と、ある日、僕は悟った。
悪くないじゃないか、この特権。
Isn't it good ? Norwegian wood.
さて、ベッキー。 君は、
どちらの人?