正直さは、誰のため? [泡沫の感興]
昔、あるテレビ番組で、秋元康が作詞家として、「これが、歌のタイトルとして、僕にとっては究極です」と言って、
「初恋の人に似ている」(作詞:北山修)
を挙げていた。
僕にとっての究極のタイトルは、
「人間は何て悲しいんだろう」(あのねのね)、これだ。
歌詞自体の内容は、普通の悲しい恋愛フォークものだったと思う。まるで覚えていない。
タイトルだけが、この上ない印象として残っているだけだ。
自分の周辺で、世界中で起きているいろいろな出来事や、人の行為。
僕は、正義の実現や平和を唱えたり訴えたりしたいとは、全く思わない。そんなことに燃えている人たちも含めて、僕には、ただ、
「人間は何て悲しいんだろう」という感慨があるだけだ。
ネガティヴなうつうつ世界に浸って、よがっているわけではないが、只、ある種の心地よさはある。
何だろう、本当のことが表現されたという事実そのものが生み出す一種、癒しのような心情というか。
理想や評価や風潮や‘空気’に関係なく、単純に本当のことを言う。
これは、きっと、究極、良いことなんだと思う。
だから僕は、堂々と言い切る。とても清廉で明るくクリアーな心で。
「人間は何て悲しいんだろう」
永遠に失われている時間 [泡沫の感興]
一日の終わりにシャワーを浴びる
今日は終わりだと観念して、シャワーを浴びる
同じパターンで順番に体を洗う
この既視感ならぬ、既体感
繰り返し感
ずーっと昔、兄がサラリーマンになって数年が経った頃、
兄は、仕事中の感覚を「昨日の続きみたいだ」と表現した
まだ、高校生だった僕は、その意味が分からなかった
聞こうとも思わなかった
今、分かる
この、なんとも言えない、空しい ‘ 既体感 ’ だ
昨日、シャワーを浴びて、今浴びるまでが、妙に短い
きっと、その間、何もしていないからだ
もちろん、昼間は仕事をしている
だが、体感的には、何もしていないのだ
激流に流されている木の葉のようだ
僕は、何もしていない
あっという間に、僕の時間が終わりそうだ
昨日から、おとといから、一週間前から、一月前から、一年前から
今までが、あっという間だったという事実が証拠だ
よく、斉藤由貴の歌を思い出す
♪ 明日の朝、目覚めることが楽しみならいいね
幸せなんてほんとは、ありきたりさ
このありきたりが、僕にとって程遠い
すごいことなんだ
「人は、何のために生きているの?」だってぇ? [泡沫の感興]
なんであれ、‘私’が実覚できて、初めて真実となる。
あらゆる事象において、どんな権威も、歴史も、常識も、真実の根拠として採用できるものは何もない。
運命?
くだらねぇ!
当たり前のことだが、運命のあるなしを客観的に証明することはできない。だから、そこに詐欺野郎が入り込める隙がある。
運命は変えられる?
運命を変えたと信じている人に言おう。その結果が元よりの運命だったんだ。
運命を変えずに、そのままの運命を辿った? その結果が元よりの運命だったんだ。
どうだい。運命ってあったかい?
それとも、なかったかい?
相反する右と左が、個人の信念に依存して決まる。
つまり、偶然すり込まれたイデオロギーと同様だ。
そんなくだらないものにうつつぬかしている奴が、何を認識できるんだい。
で、信念?
くだらねぇ!
そんなものは、事象や現象に解釈を加え、それによって積み重なった集積としての物語に過ぎない。
その物語が、かの声を妨げている。
個人の脳のキャパシティに限界づけられた解釈と判断に基づく自作曲の演奏が、かの調べを妨げている。
それにしても、神の代弁者、つまり思考は、よくしゃべる。
しかも売り込みがうまい。商品は、精神世界の物語。
問題は、その売り込みに乗ることなく、どこまで突き進めるかである。
解釈、判断、理論、体系化、整合性の発見。精緻な物語へと案内してくれる魅惑の商品たち。
僕は、それらに触れることなく、僕の反応への誘惑に乗らず、突き進みたい。瞬きもせず。
その試みは、「イライラ棒」(*)の如くである。
真実は、脳を遥かに超えている。
そして、脳は、脳を超えられない。
「人は、何のために生きているの?」
って、得意げに聞いたって、
脳が作り出した質問に、脳が答えるだけのこと。
原宿降りて、
「フォーエバー21は、どっちに行けばいいんですか?」
って聞くのと、大して変わりはしないのさ。
*2本の金属で挟まれた構造になっている細い通路を、その金属と電気的に繋がっている一本の棒
を通して行き、その金属に触れさせることなく通り抜けることができればクリアというゲームである。
触れてしまった場合は電気回路に電流が流れることになるため、火花が出たり音が鳴ったりといっ
た演出が行われる。